報復・見せしめに遺体を野ざらし!?幕末期の会津戦争における残虐行為の真相を検証する【前編】 (1/3ページ)

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報復・見せしめに遺体を野ざらし!?幕末期の会津戦争における残虐行為の真相を検証する【前編】

酸鼻を極めた会津戦争

幕末期の会津戦争といえば、新政府軍と、幕府側の筆頭だった会津藩が1868年4月に衝突した戦いとして有名です。これにより、現在は観光名所となっている鶴ヶ城を、会津藩は失うことになりました。

春の鶴ヶ城

ところでこの会津戦争、実は現在でも、当時の激戦区となった会津若松あたりでは根強い遺恨があります。

さすがに、昭和初期までのように「新政府側か幕府側か」という大きな括りで出身地ごとに対立するようなことはほとんどない現代ですが、それでも会津若松あたりでは、当時の薩長軍が行った大規模な残虐行為に対する恨みがあるのです。

それも無理のない話で、佐幕派の中心的地位だった会津藩は、新政府軍からの攻撃によって街も人も壊滅的な被害を受けました。女性たちも乱暴され、9月22日に降伏した後は、被害を受けた女性たちが会津の寺に夜な夜な赤子を埋めに来たという話もあります。

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