【歴史】子どもを53人も作った徳川11代将軍・徳川家斉が凄い! いろんな意味で凄い!! (1/3ページ)
さて、本日の主役は天保十二年(1841年)閏一月七日に亡くなった、十一代将軍徳川家斉(いえなり)。例によって授業だと見事にすっ飛ばされる将軍の一人ですが、彼の時代にはいろいろとデカイ事件も起きています。
というか彼自身もいいのか悪いのかよくわからん記録を打ち立てていますので、順を追ってみていきましょう。
・一橋家の長男として生を受け15歳で将軍に
家斉は御三卿のひとつ・一橋徳川家の二代目、徳川治済(はるさだ)の長男として生まれました。御三卿とは、江戸時代の中ごろに作られた徳川家の分家で、徳川本家と御三家(尾張・紀州・水戸)の次にエライということになっていたので、かなりいいとこの生まれだということになります。
しかし、彼にとってはこの生まれが良かったかどうか。というのも、十代将軍・家治の息子・家基(いえもと)が急死したとき、他に適当な男子がいなかったため、あれよあれよという間に次の将軍候補として家治の養子にされてしまったのです。そして家治自身もまたその七年後に急死してしまい、家斉は15歳で将軍になりました。
養子入りの際に元服したので一応大人扱いではありましたが、まだまだ若く政治のせの字もわからないような状態ですから、実際に執務を取り仕切るのは老中をはじめとしたお偉いさんです。
この頃、家治時代に重用されていた田沼意次が罷免され、代わりに松平定信が老中首座という老中のリーダー格になりました。
・もとの濁りの田沼こひしき
その後どうなったかは皆さんご存知の通りですが、当時の人々からはこんな評価がされています。定信就任直後は「田や沼や よごれた御世を 改めて 清くぞすめる 白河の水」=「田んぼや沼のように汚れた世の中を、白河藩主の定信様が改めてくださるに違いない!」というもの。
しかし、しばらくすると「白河の 清きに魚(うお)の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」=「白河の水はきれい過ぎて魚も住めない。田んぼや沼のように少しにごっているくらいがちょうどいい」というように変わりました。
民衆が都合の良いことばかり言うのは今も昔も変わりませんねぇ。