明智光秀の信長討伐は「氏族再興を阻む外交への不満」が原因(2)光秀の「前半生」は苦難の連続だった
そんな両者の関係が急転直下し、謀反につながっていった理由は、信長の外交政策にあったという。 唐入り、すなわち中国(当時は明)への進出である。変の3年前、1579年に、イエズス会アジア地区責任者の巡察師・ヴァリニャーニが来日し、少なくとも4回、信長と面会した記録がある。「その時にヴァリニャーニの通訳を務めたルイス・フロイスが記した『日本史』には、次のような記述があります。『信長は毛利を征服して天下統一...