総理大臣に就任してからわずか2カ月後、田中角栄は中国へと飛んだ。日本にとって長年の懸案事項であり続けた「日中国交回復」を実現させるためだ。国内からの猛烈な反発、中国側の強硬な対応という逆風を受けながらも、田中は己の信念を曲げず、前へ前へと進んでいく!
田中角栄首相は、1972年(昭和47年)7月19日の初記者会見で日中国交正常化への意欲を示した。
「機が熟してきた、の一言に尽きる」
が、賀屋興宣や石原慎太郎ら台湾擁護派は、日中国交正常化に激しく反論していた。
「日華平和条約消滅というのはおかしい」
「台湾と断交した場合、在留邦人の生命、財産は保証されるのか」
「アメリカが極東から撤退した場合、台湾が安全保障上の真空地帯となる」
そんな声を背にして、9月25日、田中は大平正芳外務大臣らと共にいよいよ中国に旅立った。目白邸を出た田中一行は、物々しい警戒ぶりであった。
「田中の車に、体当たりでぶつかっていってやる」
と、ある右翼が言い放った話も伝わっていた。
特別機は、現地時間午前11時半、抜けるような秋晴れの北京空港に着陸した。
迎賓館の応接間から、人民大会堂に移り、「接見庁の間」で酒談義になった。
周恩来首相が田中に言った。
「さしあげたマオタイ酒は、ウォッカよりもおいしいでしょう。ウォッカもウイスキーもやめて、マオタイにしたらどうですか」
つまり、ウォッカのソビエト、ウイスキーのアメリカよりマオタイの中国と仲良くしましょう、とのユーモアであった。
午後2時55分から人民大会堂の「安徽省の間」に移り、第1回の日中首脳会談が行われた。
周が、やがて挨拶に立った。
「1894年から半世紀にわたる日本軍国主義者の中国侵略によって、中国人民はきわめてひどい災難をこうむり、日本人民も大きな損害を受けました」
先の戦争での日本側の責任をきっぱりと指弾したのだ。
続いて田中が挨拶した。