内臓を掴み敵に投げつける壮烈な最期…村上彦四郎義光が戦場で魅せた「切腹の手本」

| Japaaan
内臓を掴み敵に投げつける壮烈な最期…村上彦四郎義光が戦場で魅せた「切腹の手本」

相州の官幣中社・鎌倉宮(鎌倉市二階堂)にお参りすると、拝殿の右手に小さなお社が祀られています。

鎌倉宮の武者木像

そして、その傍らには甲冑姿で合掌した大きな木像がありますが、こちらは一体誰なのでしょうか。

忠義の勇士・村上彦四郎義光

歌川豊宣「大塔宮吉野落図」明治十五1882年。左奥から村上彦四郎が駆けつけるシーン。

時は鎌倉末期の元弘三1333年1月、鎌倉幕府を討伐するために還俗(げんぞく、出家していた僧侶が世俗に戻ること)・挙兵した後醍醐天皇の第2皇子・護良(もりなが)親王の立て籠もっていた吉野山(吉野城)に、幕府軍の武将・二階堂貞藤が6万余騎を率いて攻めて来た時のこと。

護良親王らは果敢に奮闘するも衆寡敵せず、いよいよ敵軍が本陣・蔵王堂まで押し迫って来ました。

もはやこれまで、と別れの酒宴を開いていた護良親王らの元へ、最前線で戦っていた忠義の勇士・村上彦四郎義光(むらかみ ひこしろう よしてる)が、身体に16本もの矢を突き立てた姿で戻って来ました。

もうすっかり諦めムードな護良親王らを叱咤激励し、「私が親王殿下の身代わりになりますから、皆さんは早く逃げ延びて、いつか必ずリベンジして下さい!」と説得します。

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