内臓を掴み敵に投げつける壮烈な最期…村上彦四郎義光が戦場で魅せた「切腹の手本」 (2/5ページ)

Japaaan

義光の忠義に感動した護良親王は自らの鎧を下賜して家来たちと吉野山を脱出しました。

義光の息子・義隆(よしたか)も「父上と最期まで一緒に戦いたい」と願い出ますが、義光に「お前の使命は親王殿下をお守りすること、父を思うなら親王殿下にお供せよ」と諭され、泣く泣く吉野山を後にしたのでした。

壮烈!村上彦四郎義光の最期

豊原国周「太平記豪傑之一人 村上彦四郎」文久元1861年

さて、蔵王堂に一人残った義光は、護良親王から賜った鎧を身に着けると、程なく迫り来た幕府軍を前に言い放ちます。

「天照大神(おまてらすおおみかみ)御子孫、神武(じんむ)天皇より九十五代の帝(みかど)、後醍醐天皇第二の皇子 一品兵部卿(いっぽんひょうぶのきょう)親王尊仁(たかひと)、逆臣(げきしん)が為に亡(ほろぼ)され、恨(うらみ)を泉下(せんか)に報(ほう)ぜん為に、只今(ただいま)自害する有様(ありさま)見置きて、汝等(なんじら)が武運 忽(たちまち)に尽て、腹を切らんずる時の手本とせよ」
※『太平記』巻第七 吉野城軍事(よしのじょう いくさのこと)より。

【大意】
天照大神の子孫である神武天皇から95代目となる後醍醐天皇の次男・(官位・称号など略)尊仁(護良親王の本名)が、謀叛人に滅ぼされる無念をあの世(黄泉)から晴らす(祟る)ために自害するから、お前たちの武運が尽きた時の(皇族に逆らう罰当たりなお前らの武運、どうせすぐに尽きるだろう)手本とするがいい!

言い終えるなり義光は腹を切り、自分の内臓をつかみ出しては敵に投げつけ、投げつけられる内臓がなくなると太刀を口にくわえて突っ伏し、喉に刃を貫いて絶命したそうです。

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