内臓を掴み敵に投げつける壮烈な最期…村上彦四郎義光が戦場で魅せた「切腹の手本」 (3/5ページ)

Japaaan

ところで、鎧を着た状態で腹を切るのは大変なのでは?という疑問もあると思いますが、おそらく甲冑をすべて着込んだ状態ではなく、脇楯(わいだて)のみ着装した小具足(こぐそく)姿だったものと考えられます。

明治三十二1899~三十九1906年『故実叢書』鎧着用次第より、小具足姿(右の人物)。

それにしても、自分の腹を切るだけでも大変でしょうに、そこから内臓をつかみ出して敵に投げつけるとは随分グロテスクな話ですが、当時の武士たちは、それこそが「勇気ある最期の振舞い」として高く評価・賞賛する価値観を持っていました。

村上彦四郎義光の墓、そして護良親王のその後

かくして吉野山の蔵王堂に果てた義光ですが、幕府軍が遺体を検分すると、身代わりであったことが判明。

二階堂貞藤らは護良親王を取り逃がした腹いせに、義光の遺体を打ち捨ててしまいましたが、それを憐れんだ里人たちは、蔵王堂より北西約1.4キロの場所に遺体を葬り、現地は「村上彦四郎義光の墓」として今日に伝わっています。

一方、吉野山から脱出した護良親王の一行が安全な場所まで逃げ延びる道中、先ほど父と惜別した村上義隆は幕府軍を相手に奮戦し、最期は満身創痍に力尽き、父と同じく自害したと伝わります。

作者不明(14世紀)・護良親王出陣図(馬上の人物)。

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