田中角栄「名勝負物語」 第三番 石原慎太郎(1)

| 週刊実話

 昭和43年(1968年)7月、一橋大学在学中に発表した『太陽の季節』が芥川賞を受賞して以後、数々の話題作で文壇の寵児となっていた石原慎太郎が参院選に出馬、全国区で史上初の300万票を集めてトップ当選を果たした。時に、36歳であった。

 じつは、この選挙戦のさなか、当時、出版社に勤めていた筆者は石原にインタビューをした思い出がある。なるほどこれが“慎太郎刈り”かと妙な感心をしていると、後年も変わらずの目をパチパチさせながら、極めて早口で自民党の現状打破、「体制内改革」をブチ上げていたものである。初登院はナント、石原の選挙を後押ししていた自動車メーカー・マツダが売り出して間がなかった、スポーツタイプのロータリーエンジン搭載の白の「コスモ」で乗りつけた。なんとも異例の初登院に大いに話題を提供したものだった。

 颯爽としたこの1年生議員は、その足でまずは時の自民党幹事長だった田中角栄にあいさつに向かった。自民党本部4階の幹事長室で田中と向かい合った石原は、開口一番こう言った。

「幹事長、いまの自民党の広報活動はなっていない。『自由新報』(党の機関紙)の編集もなってない。自民党本部の職員は、こんなに要らんでしょう。削減すべきです」

 黙って聞いていた田中が、この直後、ピシリ一言いった。

「君の話は分かった。しかし、人間は木のマタから生まれてくるのではない。人には、それぞれ歴史というものがある」

 石原は「?」というような表情を見せ、幹事長室を出たのだった。

 この田中の一言には、田中の人生観、政治姿勢が表われていた。こういうことである。

 石原はこれまで、文学の世界、メディアの世界でモノを言い、それはある種の新しさと歯切れのよさから支持を集めた。しかし、田中に言わせれば、それはあくまで「論」であり、実人生と必ずしも合致しない。

 例えば、自民党という大組織には現実というものがある。広報活動も、『自由新報』の編集も積み重ねがあり、一朝一夕にできたものではない。皆、それなりに苦労してやっている。また、党本部の職員が多すぎると言っても、即削減したらどうなるか。クビになった本人はどうする、その家族も路頭に迷う。

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