田中角栄「名勝負物語」 第五番 小沢一郎(3)

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田中角栄「名勝負物語」 第五番 小沢一郎(3)

 死去した父・小沢佐重喜代議士の後継に決まった小沢一郎は、田中角栄から伝授された選挙作法を胸に、次期総選挙への準備に入った。昭和44(1969)年の年明けである。

 田中からの「戸別訪問3万軒、雨でも雪でも休まずの辻説法で5万人と握手せよ」との選挙作法伝授は、忠実に実行した。当時の中選挙区〈岩手2区〉は、べらぼうに広い。一郎が朝早く出、事務所に戻ってくるのは毎晩12時頃であった。当時の後援会幹部の証言が残っている。

「演説は、元々が口下手、寡黙な青年だっただけに、お世辞にもうまいとは言えなかった。声が小さく、生マジメにはしゃべるが、情熱のほとばしりなどはまったく伝わらない。一方で、会合では酒が付きものだが、アイソがニガ手だけにそれこそアブラ汗3斗、必死でお付き合いしていた。ただ、実直さだけは買われたようだった」

 そうした中、この年11月、時の佐藤栄作首相が訪米してニクソン大統領と会談、3年後の昭和47年に「沖縄の施政権返還」を決めたことの共同声明を発表した。直ちに佐藤はこれを追い風とし、政権浮揚を目指すための衆院解散―総選挙の挙に出たのだった。「沖縄返還解散」と言われ、投票日は12月27日と決まった。自民党の選挙指揮官は、幹事長の田中角栄であった。

〈岩手2区〉は、定数4。事実上、有力候補5人の争いとなった。自民党からは新人の小沢のほか、のちに外相、副総裁を務め三木武夫の総裁「裁定」で知られた椎名悦三郎、そして志賀健次郎の3人。社会党からは千葉七郎、北山愛郎である。ということは、うち1人が“貧乏くじ”を引く勘定になるのだが、メディアによる戦前予想は、おおむね「ダンゴ状態。5人のうち誰が落ちても不思議ではない」というものだった。

 結果、「弔い合戦」の同情票、田中幹事長直々の物心両面にわたる支援も手伝い、小沢は2位の千葉に2万票近くの差をつけ、堂々のトップ当選を飾ったのだった。ちなみに、田中幹事長が指揮を執ったこのときの選挙は自民党が圧勝、選挙直後の無所属当選の追加公認分を加えると、じつに300議席となり、田中にとっては「日の出の幹事長」にさらに弾みをつける結果ともなっている。

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