田中角栄「怒涛の戦後史」(19)元官房長官・梶山静六(上)

| 週刊実話

 田中角栄という人物は、人を見る目において極めて炯眼であった。勉強家であるかどうか、上っ調子でなく地道な努力をしているか、度胸があるか等々、部下として使える人物か否かの峻別は厳しいものがあった。

 ために、かつての田中派には単に委員会の出席要員にとどまるような“駄馬”はほとんど存在せず、一騎当千、どこへ出しても通用するような人材がひしめいていた。田中は人材発掘、育成の名手だったということである。言うなら、田中派は「田中角栄学校」でもあった。

 その門下生からは、竹下登、羽田孜、橋本龍太郎、小渕恵三、そして“外様”的存在で田中の影響を受けた麻生太郎と5人の首相を誕生させている。こうしたことは田中の師匠格にあたり、池田勇人、佐藤栄作といった両首相を門下から送り出した、かの吉田茂も遠く及ばないものであった。

 また、首相経験者以外にも、当初は度胸とハッタリが先行、しかし、徐々に「調整役」としての重みを加えていった金丸信・元自民党副総裁、あるいは「剛腕」として混迷する政局に大ナタを振るい続けた小沢一郎(現・国民民主党)など、まさに「田中角栄学校」は多士済々であった。今年、御年81になり、現在なお老練な党運営を駆使している二階俊博幹事長も、田中の一挙手一投足を見て育ち、その手法をわがものにした人物である。

 そうした門下生の一人が、梶山静六(現・経産大臣の梶山弘志の父)である。時に、権力の絶頂にあって怖いものなしの田中は、こう唸ったことがある。

「ワシの寝首をかく奴がいるとしたら、それは梶山を置いてない。ワシが発掘した男だけのことはある」

 梶山は陸軍航空士官学校を出て、戦後29歳で茨城県議会議員に初当選、40歳の若さで与野党の利害が衝突する県議会の議長ポストをこなしていた。その梶山に目をつけ、国政に引っ張り出したのが田中だった。

 時に田中は佐藤(栄作)政権下での自民党幹事長で、近い将来の天下取りを期し、有能な手兵を物色していたさなかだった。田中は首相の座に就くと、警察庁長官を退官したばかりの後藤田正晴に目をつけ、第1次内閣で首相への登龍門ともされる官房副長官のポストに就けた。梶山もまた、有能な手兵としてそのポストに就けたのである。

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