《没後20年》長州、天龍、三沢…「7大名勝負」で振り返るジャンボ鶴田伝説

| Asagei Biz
ジャンボ鶴田

 49歳でこの世を去ったジャンボ鶴田。その「最強伝説」が没後20年を経てよみがえった。フルタイムを戦っても疲れを見せない未曽有のスタミナ。日本人対決で見せた「怪物ぶり」は今も語り継がれる。全日本担当として鶴田を間近で見てきた元「週刊ゴング」編集長・小佐野景浩氏が「7大名勝負」でその足跡をプレイバックする!

 ジャンボ鶴田が49歳の若さで急逝してから20年目となる5月13日、私は『永遠の最強王者ジャンボ鶴田』(ワニブックス刊)を上梓した。その輝かしい戦歴は〝日本人レスラー最強説〟を生み、今も根強い。いかに鶴田がすごいプロレスラーだったのか。名勝負によって最強の足跡を追ってみよう。

 まず鶴田伝説で欠かせないのは1972年のミュンヘン五輪レスリングのグレコローマン100キロ以上級代表の肩書を引っ提げて、全日本プロレスに入団した時の「プロレスは僕に最も適した就職だと思い、監督と相談のうえ、尊敬する馬場さんの会社を選びました」という挨拶だ。

 それまでのプロレス入りは「団体への入門」だったが、鶴田は爽やかに「会社への就職」と言い切った。徒弟制度的な日本マット界に一石を投じる言葉だった。五輪出場という経歴で全日本に就職した鶴田は、まさにエリート待遇。下積みをすることなく、テキサス州アマリロの名門ファンク一家に預けられて英才教育を施されている。

 半年の修行を終えて帰国した鶴田は、スポーツ刈りから長髪とジーンズに変身。テキサスの自由な空気をまとった鶴田は女性ファンの憧れとなり、今で言う〝プ女子〟が急増した。元祖アイドルレスラーと言っていいかもしれない。

 鶴田がメインイベンターとして最初に認知されたのは、凱旋帰国3戦目の73年10月9日、蔵前国技館で開催された全日本旗揚げ1周年興行でジャイアント馬場とのコンビでザ・ファンクスに挑戦したインターナショナル・タッグ戦だ。

 アマリロで半年のキャリアしか積んでいない鶴田を馬場がパートナーに抜擢したのは無謀とも言われたが、鶴田は期待に応えた。3本勝負の1本目、テリー・ファンクを「プロレスの芸術品」と呼ばれるジャーマン・スープレックス・ホールドでフォールして先制点を挙げたのである。感極まって号泣する22歳の鶴田は初々しかった。

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