時は慶長20年(1615年)5月8日、かつて戦国乱世を制した天下人・豊臣(とよとみ)家の栄華を象徴していた大坂城が紅蓮の炎に包まれ、灰燼に帰していく……そんな世の無情を思わせる大坂夏の陣。
大坂城主であった豊臣秀頼(ひでより)はもちろん、その母であった淀殿(よどどの。茶々)らも焼け落ちる城と運命を共にしたと伝えられています。
しかし日本人は弱い者に肩入れする「判官びいき」が好きで、実は彼らが生きていたとする「生存説」を唱える者も少なくありません。
もし淀殿が死んでいなかった……としたら、大坂城を脱出した彼女は一体どこへ行ったのでしょうか。
と言う訳で、今回はそんな淀殿生存説の一つを紹介。真偽のほどはともかく、とても興味深いですね。
遠路はるばる上州へ……「……ここまで来れば、まずは一安心にござろう」
焼け落ちてゆく大坂城を遠く離れ、淀殿の駕籠を護衛していたのは秋元越中守長朝(あきもと えっちゅうのかみながとも)。
豊臣家を滅ぼした徳川家康(とくがわ いえやす)に与する老将ですが、どういう訳か淀殿を手引きして大坂城から脱出させました。