街全体が城郭だった「鎌倉」。その重要な防御施設「鎌倉七切り通し」を紹介

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街全体が城郭だった「鎌倉」。その重要な防御施設「鎌倉七切り通し」を紹介

好評のうちにエンディングを迎えた『鎌倉殿の13人』。鎌倉幕府は北条義時から子息の泰時に移り、そこから北条得宗家による執権政治が続いていきます。

今回は、そんな鎌倉幕府を支えた軍事上重要な拠点であった「鎌倉七切り通し」について紹介しましょう。

巨大な城郭都市「鎌倉」を守る七つの「切り通し」

鎌倉は東・西・北を小高い山に囲まれ、南が海に面するという地形で、都市全体で巨大な城郭を形成していました。

その出入り口にあたるのが「切り通し」と呼ばれる、山の稜線を切り開いて作った人工的な道です。

単なる通路ではなく、都市全体が城郭である「鎌倉」では、戦略上重要な機能を果たし、敵の侵攻から「鎌倉」を守る上で重要な役割を果たしたのです。

新田義貞を退けた要害「極楽寺切通し」

極楽寺を開創した忍性が開いたと伝えられる。坂ノ下から腰越、片瀬へ延びて東海道に通じ、京都と鎌倉を繋ぐ重要な道でした。新田義貞の鎌倉攻めでは、義貞軍が侵入を図ったものの、幕府軍の防備は固く、退けられたと『太平記』に記されています。

写真:Wikipedia

壮大さを国木田独歩に絶賛された「大仏坂切通し」

梶原、山崎から藤沢へと延びており、古くは「深沢切通し」とも呼ばれました。

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