街全体が城郭だった「鎌倉」。その重要な防御施設「鎌倉七切り通し」を紹介 (2/4ページ)

Japaaan

「大仏坂の切通しは鎌倉の地質にして初めて作り得るといふべきしろもの、左右の絶壁数十間」と作家・国木田独歩は、明治35 年頃の大仏坂切通しの様子を『鎌倉の裏山』で述べています。

写真:Wikipedia

切通し一帯が刑場だった「化粧坂」

海蔵寺の手前から山に入り、葛原岡へと続く道。新田義貞は鎌倉攻めにあたり、三手にわけた軍勢の内、一軍を差しむけここで幕府軍を破りました。鎌倉時代、一帯は刑場で、建武の新政前にここで処刑された後醍醐天皇の近臣・日野俊基を祀る葛原岡神社が鎮座します。

写真:Wikipedia

傾斜が激しい急坂の道「亀ケ谷坂」

扇ケ谷と山ノ内を結ぶとともに、化粧坂同様、武蔵方面へ通じます。『吾妻鏡』によると3代執権北条泰時が、仁治元年(1240)に悪路だった山ノ内道を整備したとされます。登ろうとした亀達が、余りの傾斜に皆ひっくり返ったために亀返坂とも呼ばれたという伝説が残ります。

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