永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)にかけて三河各地で蜂起した一向門徒。松平家中でも忠義と信仰の板挟みに葛藤し、やむなく家康に刃を向ける家臣たちが続出します。
後年「三河一向一揆」と呼ばれた大事件は、徳川家康(とくがわ いえやす)の三大危機に数えられるほどの窮地でした。
やがて一向門徒との和睦により一揆が終息すると、離反した家臣たちが三々五々帰参します。果たして家康は彼らをどうするのでしょうか。
江戸幕府の公式記録『東照宮御実紀』を読んでみましょう。
罪を悔いれば一人も罰せず?……一向専修の門徒俄に蜂起する事ありしに。普第の御家人等これにくみするもの少からず。国中騒擾せしかば。 君御みづからせめうたせたまふ事度々にして。明る七年にいたり門徒等勢をとろへて。御家人どもゝ罪をくひ帰順しければ。一人もつみなひ給はず。有しながらにめしつかはる。……
※『東照宮御実紀』巻二 永禄四年-同七年「一向宗一揆」
【意訳】一向門徒がにわかに蜂起し、譜代の家臣たちも寝返る者が少なくなかった。やがて三河じゅうが大騒ぎとなったため、家康自ら討伐に出陣することもしばしば。永禄7年(1564年)に入ると一揆勢も衰え、寝返った家臣たちも罪を悔い改めたため、誰一人として咎めることなく昔のとおり(ありしながらに)召し使った。