1600年に起きた、関ケ原の戦い。この戦いで、徳川家康は西軍の石田三成らを破り、その3年後の1603年には、江戸幕府を開府、徳川氏による政権を樹立しました。
天下分け目の戦いと称され、260年も続く江戸幕府開府の決定打となったにもかかわらず、関ケ原の戦いには数々の謎が隠されています。
そんな謎多き合戦史に一石を投じたのが、城郭考古学者で奈良大学文学部教授の千田嘉博氏が2020年に唱えた新説でした。第3回となる【後編】では、必勝を期して関ケ原に布陣した西軍が直面した誤算と敗戦についてお話しします。
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徳川家康が関ケ原に進出したとの報を受けた、石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家ら西軍主力は、1600年9月14日の夜、降りしきる雨の中、大垣城から関ケ原に移動し、それぞれが決められていた場所に布陣します。
そして、決戦当日の9月15日の暁を迎えました。その日は前夜からの雨の影響からか、関ケ原一帯は濃霧に覆われていました。しかし、夜が明けるとともに徐々に霧が晴れていき、周囲の光景が明らかになります。