シャルリ・エブド襲撃事件に見る「表現の自由」と「テロリズム」の意味

シャルリ・エブド襲撃事件に見る「表現の自由」と「テロリズム」の意味

 フランスの社会風刺紙『シャルリ・エブド』が襲撃された事件で、フランス各地で連帯を呼びかける運動が起こり、レピュブリック広場には3万人を超える人々が集まって「Je suis Charlie(私はシャルリ)」と書かれたプラカードを掲げた。

 この問題が語られる際に必ず持ち出されるのは「表現の自由」という単語だが、現在起きている「Je suis Charlie運動」には、この表現の自由と相反してしまう危険が伴っている。

 日本でも安部首相に対して「フランスに赴いて運動に参加すべし」や「安倍自身が行かなくても高官を派遣すべきだ」といった意見が挙がっているのだが、こうした同調圧力は表現の自由の最大の敵であろう。むしろこうした「表現の自由、反テロ」といった同調圧力によって、本来の言葉の意味に近い "テロリズム" が巻き起こる可能性すら秘めている。

 まず大前提として理解していただきたいのは、表現の自由がなぜ必要なのかという点である。建て前としては「誰もが声を挙げられるように」という考え方になるだろうが、さらに突き詰めるならば「多数派の同調圧力や差別感情などに振り回されず、また弾圧されず、少数派であっても意見を主張できるように」が理想である。少数派の意見が多数派の数の暴力でかき消され、理解を得られないというならば、それは表現の自由が守られているとは言えない。

事件の背景にはフランス国内の複雑な移民問題

 さて、今回のシャルリ・エブド襲撃事件の犯人はアルジェリア系のフランス人で、過去にイスラム国に参加しようとして逮捕された前科があるそうだ。親に早くに死なれ、施設育ちだったという情報もある。言ってみれば社会的にも宗教的にも、フランスでは弱者や少数派にカテゴライズされる立場であったろう。そしてアルジェリアといえば過去にフランスが植民地として支配し、その独立運動を武力で押さえつけ、凄惨な弾圧を繰り広げた土地でもある。こうした背景から考えると、今回のシャルリ・エブド襲撃事件は、社会的に追い詰められた弱者による、フランス社会への報復行為という一面が浮かび上がってくるのだ。

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