シャルリ・エブド襲撃事件に見る「表現の自由」と「テロリズム」の意味 (2/4ページ)

東京ブレイキングニュース

 これを考えず、単にイスラム原理主義者の無差別テロかのように扱い「民主主義の敵」と切って捨てる行為が、果たして表現の自由を掲げる人々にとって相応しい行いと言えるだろうか。表現の自由と言うならば、シャルリ・エブドの風刺も、フランス社会で窮屈な生活を強いられている人々の声も、同価値でなければおかしいだろう。しかし後者を上手に拾い上げられずにいるところに、問題となった風刺マンガがトドメを指し、今回のような悲劇に繋がってしまった。いわば表現の自由や民主主義という聞こえの良い言葉が持つ「多数派に流され易くなる」という欠陥が最悪の形で表面化したのであり、これはフランスに限らず日本も他の国々も等しく抱えている社会問題だと思われる。

 ただし、襲撃事件後の立て篭もりの際の人質も含め、十数人の命を奪った殺人犯なのだから、彼らの犯した罪そのものを弁護する気はない。罪は罪として判断するよりほかなく、いかなる事情があるにせよ彼らは同情し難い殺人犯である。「襲撃事件の犯人の心情や動機は解らなくもない」という程度が限界だろう。

 だが、被害者の立場にあるシャルリ・エブド側に何の落ち度もないかというと、これもそうとは言い切れないのだ。いくら表現の自由を守らねばならないとしても、何らかの表現が人権侵害や名誉毀損に繋がる場合などは、フランスの法でも処罰の対象になる。シャルリ・エブドは「全ての宗教を等しく笑い飛ばす」という姿勢を持っており、それが媒体としての公正さや平等さだとされているが、それを崩さず、風刺の対象者であっても認めざるを得ない(=訴えるに訴えられない)という状況を勝ち取るには、方法はひとつしかない。それは「笑えること」だ。

 風刺マンガが「笑えるか否か」は、どれだけ鋭く的確に真実を突いているかの一点にかかっている。対象について調べ上げ、一枚の絵に様々な要素を盛り込み、それを見た人間を笑わせる。爆笑ではなく苦笑でもいい、とにかく笑わせる事が出来れば風刺マンガの勝ちだ。逆に言えばそれが出来ないのであれば侮辱やおちょくり止まりであり、それも表現の範疇に含まれるだろうが、表現の自由の代償として表現の責任や義務も負うことになる(重ねて言うが、報復殺人や暴力を認めろと言っているのではない)。

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