歴史はつながる…ナポレオンから広島・長崎原爆投下までの「戦争と平和」のストーリー (2/3ページ)
18世紀中葉の七年戦争では一方面に5、6万人ほど投入するだけで精一杯だったのが、ナポレオン戦争期には10万人単位の兵士を容易に動員できるようになったのだ。1806年のプロイセン戦役では、ナポレオンは20万もの兵力を前線に送り込んでいる。予備戦力はその数倍だ。
会戦そのものの頻度も、当然ながら多くなった。かつての戦争は、一度の戦役で行われる会戦はせいぜい一度か二度。殆どの場合、それだけで決着がつく。だが豊富な予備戦力を持った軍隊は、一度二度の敗退くらいでは絶対に諦めない。後方か他方面の戦区から、損失分の兵力を補充すればいいからだ。
このような新しい戦争を通して生まれたのが、“殲滅”という戦略概念である。
■ 勝利か死か
1812年、ナポレオンはフランス軍と属国軍隊の混成による60万人規模の遠征軍を組織した。目標はロシア帝国。フランスにとって、ロシアの存在は戦略上の最大の懸念事項だった。ロシアさえ潰せば、対イギリス戦でも優位に立つことができる。
だがロシアの厳冬が、その思惑を粉々に破壊した。次々に倒れた軍馬の代わりに兵士が物資を運び、その兵士もまた倒れていく。ここは列氏−30度すわなち摂氏−37.5度の平原である。重火器、軽火器、荷車、そして兵士という順番にフランス軍はその装備と人員を失っていった。モスクワを目指していた当初は60万人いたはずの遠征軍は、ついに1万人を切ってしまった。
だがここで肝心なのは、その後の1813年プロイセン戦役でナポレオンは再び数十万規模の軍隊を繰り出しているという事実だ。兵力の補充とそれに伴う徴集は1814年フランス戦役、そして1815年のワーテルロー会戦でも繰り返し行われている。
ワーテルローでナポレオンは、激戦の末にウェリントン公アーサー・ウェルズリーに敗北した。その敗因は「ド・グルーシーの石頭のせい」、「ウーゴーモン屋敷を奪えなかった」、「ミシェル・ネイの無謀な騎兵突撃があったから」等々言われているが、もし緒戦でプロイセンのブリュッヘルの部隊を完全駆逐したとしても、そこで手にする戦略的安定は脆いものだったに違いない。