肥後の五郎鎌倉へ行く、今に語り継がれる「蒙古襲来絵詞」の背景 (2/3ページ)
季長は同族内の土地争いに負け、没落した御家人と言われている。その所領は非常に小さかったか、あるいは兄の家を間借りしていたとも考えられている。早い話が“穀潰し”だ。
「だからこそ、五郎殿は蒙古との戦で手柄を立てなくてはならなかったのじゃ。だが、待てど暮らせど幕府からの恩賞の沙汰はない。怒った五郎殿は、鎌倉へ直訴をしに行ってしまった。」
元寇は当時の鎌倉政権の弱点を、意図せずとも見事に突いてしまった。日本側にとってこの戦は防衛戦だ。勝っても何も得られない。ただでさえ御家人たちの所領が細分化しているのだ。功労者に恩賞などばら撒くことは不可能である。
だが御家人たちは、命がけで戦ったのだ。恩賞をもらうのは当然だ。それができない幕府は、もはや存在意義をなくしかけている。
季長も、そんな幕府に不満を持つひとりだった。
■ 馬と恩賞地を授かる
「五郎殿は運のいいお方じゃ。鎌倉の城九郎殿にお会いして、己の手柄を語ることができた。だが、いろいろと難儀したそうじゃ。幕府は五郎殿の手柄を認めたくないようでの……。」
季長は、鎌倉の恩賞奉行だった、安達泰盛に謁見する機会を得た。だが泰盛は当初、「先駆けの功績だけでは恩賞を与えることはできない」と告げた。
それに対して季長は、「恩賞が目当てではなく、自分の先駆けの功績が鎌倉に報告されていないのが不満だ。再度調査したうえで、もし自分が嘘をついているのであれば、この首を撥ねてほしい」と返したのだ。
これが凡人ならば、本来の目的である恩賞について話すところだ。だが季長は凡人ではない。まず自分の戦果を既成事実として持ち出すことによって、竹崎五郎季長という御家人の存在を無視できないようにしたのだ。肥後から鎌倉まで徒歩でやって来た健脚の持ち主は、同時に恐るべきネゴシエーターでもあったのだ。
その後、季長には恩賞地がもたらされただけでなく、ここまでの移動手段が徒歩であったことを見かねた泰盛から、なんと馬が贈られた。季長は自身の馬を、鎌倉までの旅の路銀にと売ってしまっていたのだ。
肥後の穀潰しは、この恩を生涯忘れなかった。