まるでボーボボ? 「鼻毛」で国を守った殿様がいたってほんと? (2/2ページ)
そこで、利常は自身の息子と家光の養女・大姫を結婚させ、さらに娘を家光の養女にし、徳川との固い血縁を結びました。
そして利常自身は国には帰らず、江戸にて鼻毛を伸ばし、毎日のように宴会騒ぎを繰り広げるという、信じられないような行動に出たのです。幕府は、あんなバカ殿の国など恐れるに足りないと、油断したのか、それともリアルにヤバいやつだと思ったのか……とにかく、疑いをかけられることはなくなりました。ただ、武士にとって侮辱は死よりも屈辱だと感じる時代です。なかなかできることではありません。
こうして加賀藩の100万石は守られていったのでした。
■財力はすべて文化学問へ
さらに利常は、この膨大な石高による財力を、武力には使わず、芸術や工芸、学問へ注いだのです。
現代にも受け継がれている、加賀の伝統文化や芸術作品の基礎がここで生まれたのです。他にも、建造物・造園などの土木工事も行われ、江戸辰口や本郷上屋敷などの造営、金沢城内玉泉院丸の庭園、小松城内葭島の大亭花園の築造など、多くのものが造られました。
藩政も怠ることなく、不作年の困窮救済と豊凶作に左右されない租税の仕組みである改作法を実施し、安定した財政を行っていました。領民も安心した生活を送れていたことでしょう。
■まとめ
・関ヶ原の戦い以降、徳川幕府は反乱を恐れ、なにかにつけて大名を疑っていた
・「利家とまつ」で知られる加賀藩二代藩主・前田利常もそのひとり
・利常は「鼻毛」を伸ばして「バカ殿」を演じ、幕府を油断させた
・加賀100万石の「財力」は、芸術や学問の発展に注がれた
利常の息子である光高が、家康をまつる東照宮を場内に建てると、「いつか幕府の天下が終わったらどうするのだ。そういうものは、場外の遠くにまつっておくのが良い」と話したといいます。このエピソードからも、利常が決してバカ殿ではなく、視野が広い人物であったことがわかります。
すべては加賀藩のためとはいえ、彼の知略はすさまじいものだったように思えるのです。
(沼田 有希/ガリレオワークス)