天才テリー伊藤対談「山本晋也」(1)先輩に「映画」の世界へ誘われて (1/2ページ)

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天才テリー伊藤対談「山本晋也」(1)先輩に「映画」の世界へ誘われて

●ゲスト:山本晋也(やまもと・しんや) 1939年、東京都生まれ。1963年に日本大学藝術学部演劇学科を卒業。日本教育テレビ(現テレビ朝日)のADを務めたあと、1964年、岩波映画製作所にて羽仁進氏に師事して助監督となる。その後、成人映画の現場に入り、1965年の「狂い咲き」で監督デビュー。人気作「未亡人下宿」シリーズなど数多くの成人映画を手がける一方で、「下落合焼とりムービー」(79年)や「欽ちゃんのシネマジャック」(93年)など一般作の監督も務めた。テレビ朝日の深夜番組「トゥナイト」「トゥナイト2」では、主に性風俗関係のレポーターとして約21年間出演。ここから生まれたフレーズ「ほとんどビョーキ」は流行語になる。その後もタレント、レポーターとして活躍。近著は「カントク記 焼とりと映画と寿司屋の二階の青春」(双葉社)。

 笑えるポルノ映画として大ヒットした「未亡人下宿」シリーズなどを手がける一方でバラエティ番組にも出演、「カントク」の愛称で人気を博した山本晋也氏。天才テリーを相手に、監督デビューの裏話、故・赤塚不二夫氏との交流、懐かしの風俗レポートの思い出を語り尽くした!

テリー カントクの新刊、読ませてもらいました。まず映画監督になった経緯がユニークですよね。

山本 うん。僕ね、中高の6年間、ずっと早稲田だったんですけど、そんなに行ってると、もう飽きてきちゃうのよ(笑)。いつまでも親の敷いたレールに乗ってるのも、嫌だったしね。

テリー わかりますよ。

山本 そしたら大学受験が迫ってきた頃、友達が日藝(日大藝術学部)の入学願書か何かを持っててさ。見たら「映画学科」「演劇学科」「写真学科」とか書いてあるから、「ここだ!」と思って。

テリー その頃から映画はお好きで?

山本 子供の頃から夢中で観ていましたよ。中学に入ると、部活で「映画研究会」があって、見学に行ったら「活動はひたすら映画を観ること」なんて言ってる。

「天才テリー伊藤対談「山本晋也」(1)先輩に「映画」の世界へ誘われて」のページです。デイリーニュースオンラインは、山本晋也カントク記週刊アサヒ芸能 2016年 6/23号映画監督テリー伊藤エンタメなどの最新ニュースを毎日配信しています。
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