田中角栄 日本が酔いしれた親分力(4)日本を発展させる資金作りに挑んで (1/2ページ)
いよいよ政治の世界に身を投じた田中角栄。だが、宰相への道はまだ遠い。学歴・人脈が幅を利かせる官僚の現場で、大きな苦戦を強いられる田中だったが、鋼の意志で1歩ずつ、その駒を進めていく。揺るぎない「リーダーの格」なくして、この熱き男の野望は成しえなかった!
田中角栄は、1952年(昭和27年)頃、張り切っていた。
〈道路整備は、戦後日本の大きな課題だ〉
問題は、整備財源をどこに求めるか、であった。
田中は、当時建設官僚であった井上孝(後に国土庁長官)に調べさせた。
「アメリカでは整備財源はどうなっているか、大至急調べてほしい」
井上は建設省の第一期生時代、国会議員の現地視察に随行したことがある。新潟県の只見地域であった。
当時自由党の田中も視察に参加した。田中は地下足袋にゲートルを巻き、藁編みの陣笠をかぶり、山道をずんずんと登っていく。その姿はエネルギッシュであり、迫力があった。
〈バイタリティの塊という感じの人だな〉
そんな印象を抱いた井上は、視察後しばらく田中と顔を合わせる機会がなかったが、1年後に偶然すれ違った。
井上は思った。
〈俺の顔は、きっと忘れているだろうな〉
ところが田中は、ニコニコして声をかけてきた。
「おい、井上君。久しぶりだな」
井上は感激した。
〈顔だけじゃなく、名前もちゃんと覚えていてくれたのか〉
田中は、愛嬌たっぷりに続けた。
「君、ホルモン焼きを食っているか」
只見地域を視察する前の晩、視察団は有楽町のホルモン焼き屋でちょっとした壮行会を行った。田中は、そのことも覚えていたのである。井上は感心した。
〈田中さんは、人の心をつかむのがうまいな〉
またある時、井上は海外出張をすることになった。どこからか聞きつけたのであろう、田中の秘書がやってきた。
「田中からの餞別です。遠慮なく使ってほしい、とのことです」
金額は、20万円であった。