浅井健一は「ビート」、チバユウスケは「南米」2人の歌詞に見る文学性の違い (4/5ページ)

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ちなみに、チバの歌詞にこの曲でいう「ケリー」のような人名が登場することは前にもあった。

たとえば「ゲット・アップ・ルーシー」がそうだが、特に物語性はなく、「ルーシー」という、おそらくは女性である人物への呼びかけに終始している。

「詩」から「物語」へ。改めてミッシェルのアルバムをデビューから聞き返すとわかるが、この変化はかなり顕著だ。

ただ、筆者個人はこの変化にいい印象を持たなかったし、当時のファンも同じように思った人が多かったのではないか。

ここにあるのは空と
見渡す限りのポップ・コーン
退屈な子供たちは
トウモロコシとファックしてる
16番目のモーテル
(「アンジー・モーテル」より引用/『カサノバ・スネイク』収録)

この歌詞も「物語」的であり、しかも舞台はどう考えても「アメリカ」である。そして2000年代初頭といえばブランキージェットシティの解散直後。ミッシェルの歌詞におけるこの変化を「チバの浅井化」だと勘繰る条件はそろっていたのである。

■「The Birthdayのチバユウスケ」が獲得した新たなオリジナリティ

ただ、この変化によってチバの歌詞は独自性を失ったと言いたいわけではない。というのもミッシェル解散後、ROSSOなどを経て、The Birthdayで活動しているチバの歌詞は、あいかわらず物語らしきものの断片やイメージを語りかけてくるが、そこには浅井の歌詞とはまた違ったオリジナリティが感じられるからだ。

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