リオ直前!あの「五輪ヒロイン」が語る灼熱の激闘秘話!(1)「競泳・田中雅美<アトランタ~アテネ>」 (1/2ページ)
日本人は世界でも指折りの「オリンピック大好き民族」である。高度経済成長の象徴だった64年の東京五輪を機に、テレビに釘づけとなって声援を送ってきた。そして今年の夏もまた、連日の熱戦が近づいている。かつて、それぞれの競技で火花を散らしたヒロインたちが今、灼熱の真実を語り始めた──。
92年のバルセロナ五輪、同い年の岩崎恭子が14歳で金メダルに輝いた。以来、田中雅美(37)は岩崎を目標とし、それを超える出場回数を手に入れた。
──まったく無名だった中学生の岩崎恭子が200メートル平泳ぎで大金星。同い年として刺激されましたか?
田中 私も何度か出たのでわかりますが、オリンピックのあの瞬間でピークを迎えて金メダルを獲る。そのすごさは、私にとってずっと憧れですね。
──96年のアトランタは、同じ平泳ぎの種目でそろって出場しました。
田中 この時は若手主体に切り替え、選考会の記録からも期待値が高かったんです。それが私も200メートルで5位、100メートルで13位と振るわず、男女ともにメダルがゼロに終わる大惨敗。私自身は5位でも自己ベストは出せたと思ったけど、チームとしても獲れなかったメダルというものを意識するようになりましたね。
──続く00年のシドニーでは、ついに400メートルメドレーリレーで後輩たちと銅メダルを獲得。
田中 ただ私は自己ベストに届かず、平泳ぎが終わった段階で夢破れてガッカリと感じました。その後、チームメイトが追い上げてくれてメダルに食い込んだので、感謝ですよ。
──シドニーの時が大学4年生で、ここでいったん競技生活にピリオドという報道もありましたが。
田中 私自身はそのつもりはなかったんです。半年ほど休みはしましたけど、気持ちは04年のアテネに向かっていました。私、「眼瞼下垂」と言って、まぶたが下がってくる症状があったんです。そのせいで睡眠障害があったり、目を開かなきゃという緊張感に包まれたり。これを手術で治したのも、アテネに賭けるためでした。