東京六大学史上最強 法政三羽ガラス裏面史 (1/5ページ)

週刊実話

 東京六大学野球は戦前から“国民的スポーツ”として人気を集めてきた。1957年には長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾の“立教三羽ガラス”と呼ばれる3人が活躍し、チーム初となる春秋連続優勝を達成したほか、大学日本一を果たすなど、東京六大学野球は大いに盛り上がっていた。
 当時の立教大・砂押邦信監督(故人)は、ナイター設備のない夜のグラウンドで石灰を塗ったボールを使う「月夜の1000本ノック」という伝説的な猛練習が有名だったが、その砂押監督と並ぶスパルタで知られていたのが、'65年に法政大学の監督に就任した松永怜一氏だった。

 就任前の松永氏は法政大学附属第一高校の監督を長く務めていた。同高の野球部にいた私や田淵幸一も、松永監督版「月夜のノック」の体験者だ。
 もっとも、田淵は当時から「プロ入り確実」と将来を期待される正捕手。同級生だった私は控えキャッチャーだった。
 高校時代から間近で見てきた田淵の圧倒的な才能は私に挫折感を味合わせたが、その一方では大きな希望も抱かせてくれた。自分は選手としてはどこかで上を目指すことを諦めることになるかもしれない。それでも私が大好きな野球の世界で、田淵という男がどこまで上にいけるのかを見てみたい――そんな想いも抱くようになっていた。

 1965年、田淵と私は共に法政大学へ入学、野球部に入部した。
 田淵は経済学部、私は文学部哲学科だ。とはいっても、勉強した記憶などほとんどない。私たちの生活は、どこまでいっても野球が中心だった。

 当時、法政大学野球部の合宿所(寮)は神奈川県川崎市中原区木月にあった。木造平屋建てで、あちこちにへこみがある廊下を歩くとミシミシと音がした。
 寮には中央の廊下を挟んで6畳の部屋が5室あった。一部屋に入れるのは5人で計25人。ベンチ入りする選手だけが寮に入ることを許された。廊下の一番奥がマネージャー室になっており、松永監督が着替えなどをする事務室兼用になっていた。

 部屋では、上級生が一番窓側横に布団を敷き、下級生は入口に足を向けて寝る。体格のいい若者ばかりのため、寝る体勢はいつもギリギリで足の踏み場もなくなる。夜中に上級生が共同便所に行くたび、寝ている下級生は顔や足を踏みつけられたものだ。

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