東京六大学史上最強 法政三羽ガラス裏面史 (2/5ページ)

週刊実話


 野球部の上下関係は今とは比べ物にならないほど厳しく、4年生と3年生は「神様」、2年生は「天皇」で、1年生は便所や風呂を掃除する雑用係も兼任しなければならなかった。
 田淵の自宅は東京だったが、レギュラーに抜擢されたため、1年生からこの寮に入ることになった。下級生にとっては地獄のような環境だが、それでもベンチ入りメンバーになれたということのほうが、はるかに重要だった。

 この年、法政大野球部の監督が田丸仁士氏から松永氏に代わっている。その松永新監督は、法大一高時代の教え子でもある田淵をレギュラー捕手に抜擢した。
 田淵と私の同学年には、甲子園出場組で関西の有名高校から来た捕手が2人もいた。そのため、「あいつは松永さんが来たから寮(=ベンチ)に入れたんだ」と田淵を妬む者もいた。

 大阪の興國高校で4番を打っていたスラッガー・富田勝も、入学当初は田淵にいい感情を持っていなかった。残念ながら富田は一昨年5月に他界してしまったが、生前、よく私にこんな話をしていた。
 「モヤシのようなブチ(田淵)と出会って、『こんなひ弱なお坊っちゃまに負けられるか!』と思ったよ。ブチも先頭に立って人を引っ張るような強い性格ではなかったからな。でもあるとき、俺が練習を終わってからグラウンドを走っていると、後ろからブチがついてきたんだ。すぐヘバるだろうと思ったけど、最後までついてきた。高校時代にスパルタ練習の松永さんにしごかれたと聞いていたから、見かけよりスタミナがあることは分かった。それに、なんといってもバッティングを見て参った。俺も飛ばすことにはかなり自信があったが、あのリストアクションは天才だった」

 まだ寮に入ることができず、木月グラウンド近くの新丸子に借りた下宿から練習に通っていた富田だが、田淵の実力を認めると、こうも言っていた。
 「俺はケンカっ早いが、ブチは争い事が嫌いな性格だ。だからこれからは、俺が体を張ってブチを守るぞ!」

 そしてもう1人、広島県立廿日市高校から投手として法政大野球部に入部していた山本浩二。彼も、もがいていた。
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