先立った夫に対する追悼も、ヴィクトリア女王のイメージ戦略のひとつだった (3/4ページ)
■追悼でも発揮された女王のイメージ戦略
そのような女王側の「メディア戦略」は、「追悼」においても、また同様になされた。
1861年12月、42歳の若さでアルバート公が腸チフスで亡くなった。「未亡人」となった女王は「雲隠れ」さながら、表に出ることが極端に減った。アルバート公の死後、40年続いた女王の治世のうち、女王が公務である議会の開会式に登場したのは、たった6回だけだったという。それはもちろん、女王や支配層の「戦略」だった。当時のイギリスでの「未亡人」の服喪期間は2年とされていたが、女王はそれを超えた1863年10月に、国民の前に姿を現した。それは、イギリス、スコットランド北東部のアバディーンでの、アルバート公を顕彰する像の除幕式だった。
そこで国民は、女王が夫を追悼するために「引きこもっていた」ことを知る。しかし現実の女王は、公の死後間もない1862年1月に、銅像用のデッサンを吟味し、発注しようとしていたのだ。その後、ウインザー城内に公の巨大な霊廟建築の準備を進める中、公の胸像を囲んで思い出を語る女王一家の写真が女王の依頼によって撮影され、広く国民に公開された。また、1868年には、公の思い出を『ハイランド日誌』として出版させた。それは当時のイギリス社会で流行し始めていた、死者への「弔慰(ちょうい)アルバム作り」の気運に乗った女王の「作戦」だったとも言える。
■そして見事に成功した女王のイメージ戦略
本来ならば、政治や宮廷儀式にほとんど登場しなくなってしまった女王とは、「君主」としての不在を意味するものである。場合によっては君主制のみならず、イギリス国体そのものも不安定にさせてしまう。しかし逆に、女王の追悼の態度は、国民が求める「献身的な妻、慈悲深い母」のイメージに加え、「悲嘆にくれながら夫の記憶に頭を垂れる未亡人」という、理想の未亡人像をも体現することになった。
それは旧来の絶対的な権威・権力を有する「君主」としてのありようではなく、当時の近代的かつ、「市民」による繁栄を誇ったイギリス社会に即した「お手本」であり、なおかつ「親しみやすさ」を有する「帝国の母/妻」にシフトチェンジすることにも成功したのである。