天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 佐藤栄作・寛子夫人(下) (1/2ページ)

週刊実話

 折り折りの「反佐藤」勢力を封じ込め、7年8カ月という戦後最長の政権維持を誇った“不倒”の佐藤栄作が倒れた。政権の座を降りて3年足らずの昭和50年(1975年)5月19日、東京・築地の料亭『新喜楽』である。
 当時、その場に同席していた大物代議士の証言が残っている。
 「夕方からの親しい政財界人が佐藤を囲んで懇談する“長栄会”の場だった。佐藤元首相のそばに福田赳夫(のちに首相)がいて、佐藤は『君、核防止条約は頼むよ。なにしろオレはノーベル平和賞だからね』などと、一杯入っているからかふだんより冗舌だった。そのあと、トイレにでも立とうと思ったのか、立ち上がったときだった。ひっくり返った。何度か一人で立ち上がろうともがいていたが…」

 その場に寝かされた佐藤は、昏々と眠り続けた。その後の入院先では、後頭部の静脈が切れての脳内出血であることが判明した。
 妻の寛子は、その日の夕方、美容院に出掛けていた。6時半、私邸に戻ったところで佐藤秘書からの一報の電話でこれを知った。
 寛子は筆者のインタビューで、当時の心境などをこう答えてくれたものだった。
 「初めは、脳貧血かと思っていました。しかし、病院では主人の体をつねってみたけど、いびきをかいているだけ。このまま死に至るとは、これっぽっちも思っていなかった。意識不明、眠り続ける主人を見ながら、私は主人が意識が戻ったらまず何を言おうか、そんなことばかり考えておったですよ。主人に、『おまえに苦労をかけてすまんな』などと言われたら何と答えていいかと」

 佐藤は倒れて16日目の6月3日、昏睡状態のまま臨床を迎えた。寛子は、こう言葉を続けた。
 「16日間の時間は、『この辺であの世へ行けば、寛子もあきらめてくれるだろう』という栄作の精一杯の演技じゃなかったかと思っていますね。倒れてすぐ亡くなったら、私は間違いなく狂っていたと思う」

 ちなみに、佐藤の仮通夜の日、弔問客の往来で取り込み中の佐藤家には、親しい関係者から弔問客用に腹が減るだろうとのことから丼物などが届けられた。なかに、これは旨いと皆がうなずいた丼物があった。誰からの差し入れか、丼を何気なく裏返した人物が言った。「“竹下”と焼きが入っている。

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