天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 佐藤栄作・寛子夫人(下) (2/2ページ)

週刊実話

万事に目配りの利いた佐藤の子分であった竹下登からのものだった。竹下はその後、佐藤派、田中派と派閥が流れる中で、求心力を集め、ついには首相の座を手にすることとなる。弔問客はあの竹下さんなら、さもありなん」と頷き合ったとされている。

 一方、寛子はインタビューで、こんな秘話も語ってくれていた。
 実は、佐藤は事のほかパチンコ好きで、一人ふらりと私邸から徒歩5分ほどの小田急線・下北沢駅近くのパチンコ屋に通っていたのだった。「花輪が出ている店はよく入る」と自信を示し、しばしば嬉々として景品の入った袋を抱えてきたそうだ。もっとも、これは大蔵大臣になったことを契機に、「税とバクチ」の関係から行かなくなった。
 また、密かに馬券も買っていたようで、秘書に買いに行かせるそれは佐藤の政治手法同様、穴狙いにあらずの“堅い”馬券専門だったそうである。やがて首相の座に就き、ノーベル平和賞も受賞した佐藤は、ナカナカだったということである。

 そのうえで、寛子にはこんな忘れられない思い出がある。
 佐藤が亡くなる1年ほど前、寛子は寝室のテレビの上に1枚の紙切れが置いてあるのを発見した。見ると、「良寛戒語」20カ条のコピーであった。「良寛戒語」とは、江戸時代後期の僧侶・歌人のあの「良寛さん」の訓話である。良寛は俗世に嫌気がさし、弟に家督を譲って出家、20年間の放浪の旅に出て修行を重ね、そこから得た“人生訓”というものであった。

 寛子が手にしたその「良寛戒語」の下記の言葉に、○印が付けてあった。
一、言葉の多さ
一、口の早さ
一、さしで口
一、よく心得ぬことを教ふる
一、すべて言葉は惜しみ言うべし
 寛子はこの○印を「あなたが私のために付けたのか」と佐藤を質したことは、一度としてなかったそうだ。

 「主人が亡くなったのは、『もうこの辺でオレがいなくなってもやっていけるだろう』と思ったからじゃないかしら。夫婦というものはよく愛しているとすぐ迎えに来ると言いますが、栄作は…」
 こうも述懐してくれた寛子が、その栄作がいる泉下に旅立ったのは、夫の死後から12年後の昭和62年4月。葬儀のあと家族が寛子愛用の文箱を開けてみると、かつて「吉田(茂)学校」優等生として佐藤と互いに張り合った池田勇人元首相の未亡人・満枝と一緒に、ゴールデン・ウイークに伊勢志摩旅行に行く予定のメモが残されていたそうである。
(次号は田中角栄・はな夫人)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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