高句麗から日本に渡来してきた高麗王若光の生涯と埼玉県日高市にあるお墓 (2/8ページ)

心に残る家族葬

警察は腐敗していたし、不公平だったし、おぞましいものだった」と述べていることから、たとえ民主化されたにしても、ブルガリアには未練は一切なかったかもしれない。しかし、「異郷に生きた」者の全てがそうとは限らない。

■高句麗からやってきた日本にやってきた高麗王若光

716(霊亀2)年に駿河・甲斐・相模・上総(かみつかさ)・下総(しもつふさ)・常陸・下野(しものつけ)の7国に居住していた高麗(こま)人1799人を移し、武蔵国高麗郡(現・埼玉県日高市や飯能市を中心に東西30km、南北10kmに渡る村々)が建郡された。その高麗人たち、そして彼らを統率し、高麗郡全体を治めたとされる、高麗王若光(こまのこしきじゃっこう)(?〜748)は異郷・高麗で何を考えて一生を終えたのだろうか。

高麗王若光「らしき」人物についての公式記録は、『日本書紀』(720年)内の、天智天皇5(666)年10月に、高句麗(こうくり、BC37〜668)国王が飛鳥に送った使者のひとりに「玄武若光」がいたこと。そして『続日本紀』(797年)の、大宝3(703)年4月に、朝廷から従五位下(じゅごいげ)の高麗若光に王(こしき)の姓(かばね)が与えられたということだけである。ここで言う「姓」は苗字のことではなく、臣(おみ)・連(むらじ)・朝臣(あそん)・眞人(まひと)などの称号のことで、「王」は外国の王族の血を引いた高位の者に与えられるものであったため、若光は高句麗王族の血縁者または高位の者であったことが窺い知れる。しかし「玄武若光」と「高麗若光」が同一人物であるかに否かに絡んだ記述は存在しない。また、694(持統8)〜710(和銅3)年まで日本の首都であった藤原宮(奈良県橿原市)跡東面大垣地区から出土した「□□(判読不能)若光」の文字がある木管が、高麗王若光と関連があると見られている。

■高麗王若光の末裔が残してきた資料によると…

更に若光の末裔が代々若光を祀り、現在は60代目の文康氏が宮司を勤める高麗(こま)神社(日高市新堀833)に保存されていた1784(天明7)年3月に記された『高麗大明神由緒書 上』によると、若光一族は当時未開発であった高麗郡一帯の開発耕作に精励した。

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