高句麗から日本に渡来してきた高麗王若光の生涯と埼玉県日高市にあるお墓 (6/8ページ)

心に残る家族葬

そのため高麗郡が「ここ」に置かれたのは、秩父の銅と若光ら高麗人が有する先進技術と関連があり、若光自身も単なる地域の長(おさ)以上の力を有していたのではないかと推察している。

■高麗王若光が高麗神社に祀られている理由


また、若光が「高麗大明神」という仏神として高麗神社に祀られていることについて、記録には具体的に何も残っていないものの、若光の死後、残された一族郎党は当初は高句麗、或いは朝鮮で信じられていた神祇を祀り、彼らの「やり方」に則った祭祀を行なっていた。しかしその後、時を経て、日本式の祀られ方をしたのではないか。或いは、高麗郡建郡前に、現在神社がある周囲の山に神が宿っているとして、地域の信仰を集めていた。そこに高麗人が1799人移住し、大きな郡をつくった。それに伴い、旧来の聖地で高麗人たちが新たに、自身の文化や歴史に即した何らかの宗教儀式を行なった。若光の死後もそれは継承された。しかし更に時を経て、今度は「神社」「寺」「大明神」など、日本式の祭祀の変わった…など、時代時代に即した信仰形態による「上書き」がなされた可能性があると考えられている。

若光の墓は高麗神社のそばの高麗山聖天院勝楽寺(こまさんしょうでんいんしょうらくじ)に存在する。それは山門(風神雷神門)右手の霊廟内の、登山道などでよく見かけるケルン(積み石)のように墓石の上に5石の石を積み上げた多宝塔だ。日本では見られない、高句麗ならではの墓標と言えよう。もともと聖天院は高句麗伝来の仏教霊場で、若光の三男・聖雲が、751(天平勝宝3)年に亡くなった師僧の高麗僧・勝楽の冥福を祈るため、勝楽が故国から携えてきた歓喜天(かんぎてん、聖天)を安置して開基した寺という。かつては墓標の下部に4体の仏が彫られていたというが、石の質が柔らかいものであったために、今ではそれらは判別できない。

その後高麗の地は、養蚕と麦作がさかんになった。そのため高麗川流域には水車が何基も回り、小麦をつく杵の音が絶えない、ある意味日本のどこにでもあるのどかな「里」「農村」になった。

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