【死後50年】チェ・ゲバラ、見せしめにされた死の真相 (2/4ページ)
ゲバラが処刑された直後の様子を資料を参考に、少し長くなるが記してみよう。
1967年10月9日の夕方、病院の洗濯台にゲバラの遺体が置かれた。すると翌日から、彼の遺体を一目見ようと大勢の人が病院を訪れた。歴史的英雄的として世界中に名が知れ渡った今では信じられないが、彼ら町の人びとは、彼のことを、邪悪な侵略者として見に来ていた。中には大声で、
「私の国の兵士を殺した奴がどんな顔してるのか。それを見に来たんだよ!」
そう言いながらやってきた女性すらいたという。
ボリビア軍は10月9日、「ゲバラは24時間前(10月8日)、戦闘中に命を落とした」と発表した。しかしそれは事実とは違っていた。
真相はこうだ。
10月8日、渓谷に潜んでいたゲバラの部隊17人はボリビア軍の挟み撃ちに遭い、攻撃される。反撃するも多勢に無勢であった。ボリビア軍との戦闘でゲバラは負傷。捉えられ、8キロ先の村へとヘリで連行された。連れて行かれたのは村にある小学校の校舎。彼はここに監禁され一夜を明かした。そして翌9日の昼、つまり遺体が公開された日の昼頃に銃殺された。
遺体の公開は処刑される前から決まっていたようだ。というのも、処刑を担当する兵士たちには「頭は打たず、首から下を狙え」という指令が下っていたそうなのだ。公開が決まっていなかったら、そんな指令は下るはずがない。公開が決まっていたからこそ、きれいな状態で、ボリビア軍の残虐さや非道さを諸外国に印象づけないように、細心の注意が払われたということらしい。
しかし公開が終われば、無惨なものであった。ゲバラの遺体は二日目の公開の後(10月11日未明)、左右の手首のところで分離され、遺体は一部が隠蔽された。
隠蔽されたのは、両手を切り離された方の遺体であった。公開が終わった日の未明に、ボリビア軍が運び出して、墓標を建てずに埋めてしまったのだ。ゲバラの友軍によって遺体が奪還されれば、捕虜として捉えられた後、裁判もなしに一方的に処刑されたことがバレてしまう。そのことを軍は何より防ぎたかった。それに埋葬されている場所が、ゲバラ信奉者たちの聖地となることも避けたかった。ボリビア政府が遺体を隠蔽したのはそうした理由からだった。