あやかりたいという理由で墓石を削って持っていくこととその遺族の思い (2/5ページ)

心に残る家族葬

多くの人々に削られ、磨耗した「欠き石」は数年ごとに新しいものが据えられているというが、次郎吉の功徳で成功した人々が感謝を込めて奉納することから、欠け石は現在まで数百基に及んでいると言われている。

■墓石が削られることは珍しいことではなかった。赤木圭一郎もその1人だった。

こうしたことは、決して珍しいことではない。第2次世界大戦中には、「軍神」とされた著名な軍人たちの墓石を削ってお守りにして、戦地に赴く人々もいた。そして、先に挙げた鼠小僧次郎吉同様に、江戸庶民の間で「アウトロー」なヒーローとして大人気を博した侠客・国定忠治(くにさだちゅうじ、1810〜1850)の墓石も、今なお削られ、「博打」「勝負事」に勝つと信じられている。

しかし、鼠小僧次郎吉、国定忠治、そして日本の軍人たちなどの残された家族は、墓を彼らの信奉者がお参りすること、更にはその墓石を「お守り」として削ることに対して、どう思っていたのだろうか。鼠小僧次郎吉らの遺族の気持ちを知る由はないが、石原裕次郎、小林旭に続く「第三の男」と言われた俳優・赤木圭一郎(本名・赤塚親弘(ちかひろ)、1939〜1961)の墓をめぐるエピソードを通して、考えてみたい。

■若くして亡くなった赤木圭一郎

「トニー」の愛称で知られる赤木圭一郎は、東京の歯科医の家に生まれた。1958(昭和33)年、19歳の時に日活第4期ニューフェイスに選ばれた。石原裕次郎の『紅の翼』(1958)のエキストラ出演を経て、小林旭主演の『群衆の中の太陽』(1959)でデビューした。
赤木はもともと、映画俳優に憧れていたわけではなかった。成城大学に入学した時、「学費ぐらい自分で稼ぎたい」と、アルバイトを探していたところ、たまたま母親の知り合いに日活のプロデューサーがいて、オーディションに応募したことがきっかけだったという。
小林旭(2001)によると、赤木は「普段から口数の少ないシャイな男」だったが、「動く時は、まるで身体の中にメロディーやリズムが巣食っているんじゃないかと思わせるほど、一挙手一投足が軽快で切れがあった」。「俺よりも身長は低く、運動神経のほうも良くなかったけど、拳銃を構え、股を開いて立つと人が変わり、そんなハンデを全く感じさせなかった。

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