新たな道、走る。LO秋田太朗(宗像サニックス)、大型ダンプに乗る。 (2/3ページ)

ラグビーリパブリック

2007年度シーズンを最後にホンダを辞めて実家に戻った。

 しかし、やがて父は復調。そして息子に、「まだラグビーを続けてほしい」と伝えた。

 ブルースで再出発することに決めた。

 ただ理由はどうであれ、それは移籍とみなされたからリリースレター(移籍承諾書)は出されなかった。2008年度シーズンは公式戦への出場が許されなかった。

 その1年の過ごし方で、秋田の新天地での評価は決まった。

「チームのプラスになるように。それだけを考えた1年だった」と振り返るそのシーズンは、Aチームの対戦相手になり切った。

 試合に出られないから手や気を抜くようなら信頼なんか得られない。常に激しさをアピールした。自分がどんな人間なのか知ってもらうため、人一倍ハードに動き続けた。

 結果、翌年は春から全試合に出場。自分が信頼されたことを感じる。

 秋も活躍。プロ集団の中に入り、以前の自分の一生懸命さが「ぬるかった」と知った。

 プロだから思う存分ラグビーに打ち込めた一方で、ラグビーを仕事にしていたから、それを失えば生活を支えるものもなくなる。

 しかし秋田は、人生に後悔はない。

 自営業の父の姿を幼い頃から見ていた。自分で道を切り拓き、自身の生きる世界を作り上げる。そんなDNAも受け継がれているから、大きな組織の中のひとつの歯車になるのは向いていなかった。

 だから、ホンダの社員のままでいたなら…とは思わない。プロとして宗像サニックスでプレーすることになったのも、38歳でセカンドキャリアを始めることになったのも、自分の選んだ道であり、運命と納得できる。

「(サニックスで)神戸製鋼に勝った試合は、よくおぼえています(2008年は試合せず。2010年は先発出場)。特にあの頃はよく走るチームで、FWとしては大変だったけど楽しかった」

 他と同じを好まない。人と違ったスタイルで勝つ。

 チームのアイデンティティーが自分のそれと一致していたのも、38歳まで走り続けられた理由のひとつだった。

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