弟のピンチに取った行動とは?室町時代を築いたレジェンド・足利尊氏の生涯に迫る!その3 (2/3ページ)

Japaaan

北条の残党が蜂起!弟のピンチに尊氏が取った行動は…

足利直義

北条高時と配下の多数は討幕計画によって死にましたが、全滅はしていませんでした。1335年7月、高時の息子が建武の新政とそれに伴う混乱に乗じて鎌倉に攻め寄せてきたのでした。これを中先代の乱と言います。

関東には尊氏の弟の直義と、皇族出身の将軍とが派遣されていましたが、戦闘を指揮するのに秀でていた尊氏がいなかったために苦戦し、逃げ回ることを余儀なくされました。その時、足利の武士が数多く殺され、鎌倉に流刑されていた護良親王も亡くなる(※1)など、惨劇が各地で起こりました。

その報を受けた尊氏は、北条征伐と征夷大将軍の許可を頂戴したいと後醍醐天皇に申し上げますが、認可されませんでした。しかし、弟や一門がピンチなのに尊氏は居ても立っても居られなくなり、独断で出撃して北条を撃退します。ついに源頼朝ゆかりの鎌倉を手にし、尊氏は武士のために独自の恩賞を与え始めました…。

(※1)北条に担がれるのを恐れた直義と配下による暗殺、もしくは彼らの手引きで東北へ逃げて生涯を終えたなど諸説あり。

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新田義貞

足利が東国に武士政権を樹立した時、『公正に恩賞を貰える!』と喜んだ各地の武士達は、もちろん鎌倉に集います。

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