「被災地を観光する」岩手県陸前高田市【後編】:造成地に未来を描く 陸前高田にかけられた橋 (1/6ページ)

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津波の被害に遭った地域の嵩上げに大規模なベルトコンベアが使用された。陸前高田市内の慰霊施設に置かれている土地造成の様子を再現したジオラマ。
津波の被害に遭った地域の嵩上げに大規模なベルトコンベアが使用された。陸前高田市内の慰霊施設に置かれている土地造成の様子を再現したジオラマ。

[文・写真 中丸謙一朗(コラムニスト)]

前回より)中丸勝典氏は現在、陸前高田市役所の農林課に勤務している。彼は神奈川県大和市役所に籍をおくが、2011年(平成23)の東日本大震災を機に、職員の足りなくなった陸前高田市役所の「派遣部隊」として、2年以上に渡ってこの地で勤務している。わたしは震災後初めて被災地を訪れ、中丸氏の案内で陸前高田の7年後の復興の現場を歩いた。

きれいに「修復」されていく大地を眺めながら人間の底力を思い、また同時にあまり人のいない広野を見つめ、なんとも言えない空虚感を覚えた。

陸前高田はいったいどこに向かっているのか。明るい雰囲気に満ちた「南向き」の街 津波の被害に遭った地域の嵩上げに大規模なベルトコンベアが使用された。陸前高田市内の慰霊施設に置かれている土地造成の様子を再現したジオラマ。

立教大学観光研究所の所長である東徹(あずまとおる)教授(立教大学観光学部)は、観光の視点から被災地を見つめ支援し続ける。東教授は、東日本大震災で故郷・陸前高田に住む両親を亡くした、自らも震災被害者である。

東教授の実家は、陸前高田の大町商店街で商売をしていた。「なんとなく明るい感じのする街だった」。教授は故郷の印象をこう振り返った。

陸前高田の中心部は、南に向かって開けたU字型の湾の奥にあたる広い平地に位置していた。歴史上何度も津波に見舞われてきた地域だからなのか、市街地は平地のいちばん先、海から離れた場所に開けていた。高度経済成長時代から見れば、いまは地域の人口減少も進み、経済的活力も衰えてはきた。だが、街が「南向き」で日当たりがいいせいか、あるいは住人の人柄のせいか、街は過疎化を象徴するような暗く沈んだ感じではなく、なんとなく明るい雰囲気に包まれていたという。

震災の被害は岩手県沿岸部に広く及んでいるが、陸前高田の被害はとりわけ甚大であった。市街地は津波によって破壊しつくされた。あの日から7年もの歳月を経たいまでも、その被害の凄まじさは一目瞭然である。

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