亡くなった方のサイトやブログ、SNSなどデジタル上のお墓について (2/2ページ)
■一方で心無いコメントが寄せられることも…
一方で、こうした現象に某大手掲示板では「怖い」「病んでいる」といった声も投げられていた。「墓参コメント」の中には情念を抑えられきれない人の、やや理解に苦しむ文章も点在する。親しい人、大切な人を偲ぶことは当然であるが、それにも拘わらずある種の「おぞましさ」を感じる声もあるのは、この世ならざる存在=死者に執着する姿に尋常ならざるものを感じたからではないだろうか。以前書いた「恐山」に参拝し死者と「交流」する人達を、外部から見た場合に感じる正直な感想かもしれない。
また、自殺志願者の死に至るまでの過程や慟哭が綴られているサイトなど、墓参などのどかな風景とはかけ離れている「負の墓」も存在する。そこは同じく死に魅入られた人、生きることに絶望を感じている人たちの叫びの場となっている。いずれの場合においても、デジタル時代における墓も恐山と同じく、死者への執着・情念を発散する「パワーレススポット」として機能しているのではないだろうか。
■「デジタル墓」も手入れをしないと廃れていく
管理者が死亡したままのサイトを追跡している古田雄介氏は、サイトも現実の墓と同様に生きている人が管理、手入れをしないと廃墟になってしまうと指摘する。筆者もいくつか知っているが、コメント欄が大量のスパムに覆い尽くされた様子はまさに朽ち果てた荒れ寺そのものである。
しかし、現実にはかつて主流だった個人のホームページや、初期のブログなどは運営会社の事情や意向で残っていないものも多い。筆者も最近、昔書いていたブログの運営会社から、レンタルスペースを閉鎖するので期日までの保存・移行を推奨する旨の通知が届いた。吉田氏も指摘するように10~20年後も残っているものはほとんどない可能性が高い。一方で氏は「LINEが出てきてからクローズドな交流の場も増えているので、全公開のまま無防備に放置される事例は今後減っていくかもしれません」とも指摘している。これからもデジタル空間の「墓」は形と場所を変えて存在し続けるだろう。
■デジタル時代の死生観
デジタル空間においては生者と死者が複雑に交錯している。我々はまだデジタル空間における死者との付き合い方に慣れていない。半世紀前にはありえなかった新しい環境では、新しい死生観の構築が求められる。
一方で生まれながらにパソコン・スマホがある「デジタルネイティブ」世代にはこの迷いはあるだろうか。現実の死と向き合う数少ない場である葬儀に参列する機会が少なくなっている世代にとって、現実とバーチャルの区別がつきにくくなる状況における新しい教育が必要だろう。それは現実とは何か?生とは、死とは何か?を問いただす機会でもある。