品川区の鮫洲という地名の由来や鮫洲明神の建立理由に深い関係がある観音様 (2/4ページ)

心に残る家族葬



それから何年か後、品川沖で大ザメが仕留められた。漁師たちがサメを解体したところ、腹から観音像が出てきたのだ。「観音様があのとき、身代わりになってくれたのだ」と、助かった息子は観音様のありがたさに感謝したという。

■東京の品川にある鮫洲の地名の由来とは?

この話は建長3(1251)年に、執権・北条時頼に報告された。すると時頼は「天下安全のめでたい前触れであろう」と、鎌倉・建長寺の開山であった南宋からの渡来僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、1213〜1278)を開山に迎え、海晏寺(かいあんじ)を創建させた。その際、大ザメの腹から出てきた観音像を本尊として安置した。また、大ザメの頭を御神体とする鮫洲(さめず)明神もこの寺の近くに祀られた。現在、運転免許試験場がある品川区東大井1丁目界隈が「鮫洲」と呼ばれていたのも、この大ザメの話が元になっている。

■身代わりと観音の関係

仏教、そして民俗学的な意味合いにおける「身代わり」とは、人の苦難を地蔵などが代わりに受けたり、仕事を代わりにやってくれたりするという信仰や伝説のことを言う。「身代わり地蔵」が有名だ。傷を自分に受けて、救ってくれた。田植えを手伝ってくれていた…などがあり、地蔵に傷がついていたり、地蔵の足が泥で汚れたりすることなどで、人々が「自分の身代わりになってくれた」と気づき、地蔵の功徳を喜び讃えるところで話が終わるものだ。

■鮫洲明神の建立理由とは

船主一族が代々信仰していた観音様がサメに食われるはずだった船主の息子の身代わりになってくれたというのは、果たして「真実」だろうか。また実際に、大ザメの腹から観音像が出てきたのか。今となってはその真偽を確かめるすべはない。昔は、観音像を2体つくり、1体は寺に祀り、もう1体は海へ流した。そしてその像が流れ着いたところを「ゆかりの地」として、その地にその像を祀る習俗があったという。もしかしたら、サメが腹の中に飲み込んでいたのは、海に流されていた観音像だった可能性もある。ただ当時の人々は、観音様が身代わりになってくれることを信じていた。そして何らかの災厄に巻き込まれ、運よく助かったときには、観音様に感謝することを忘れず、寺の本尊としてお祀りした。
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