平安時代の悲劇のヒロイン、源頼朝の長女「大姫」その悲恋と貞操の生涯(下) (4/5ページ)
さすがに頼朝公も謝ったようですが、性懲りもなく約2週間後、三崎(現:神奈川県三浦市)に建てた別荘の新築祝いに家族旅行へ出かけた時、大姫と一緒に高能も同行させています。
もしかしたら「実際会ってみれば、素敵な男性かもよ?ちょっと会ってみるだけでもさ。ね?」とか思っていたのかも知れませんが、大姫の感情はもちろん、高能の気まずさが察せられます。
その後・大姫の死と周囲の反応
後鳥羽天皇(伝:藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)
その後も頼朝公は大姫の入内(じゅだい。この場合は後鳥羽天皇との縁談)を働きかけるなど手を尽くしましたが、結局すべて失敗。
かくして建久八1197年7月14日、義高への想いを貫き通して、大姫は20歳の若さで亡くなりました。
幼くして最愛のパートナーを奪われ、心に土足で踏み入られるような仕打ち(※頼朝公らにすれば、せめてもの誠意だったかも知れませんが)に耐え続けた、まさに「悲劇のヒロイン」でしたが、『吾妻鏡』をひもとくにつれ、必ずしもみんなが同情的でなかった様子も垣間見えます。
例えば、こんな記述。
「将軍家の姫君、夜より御不例。これ恒(つね)の事たりといへども……」
※建久五1194年7月29日条、御不例とは病気のこと。
この頃、大姫の病気はもう「恒(常)=いつもの事」と認識されており、同年11月10日条「姫君また御不例」などの記述と同様、周囲の「いつまで昔の事を引きずってんだよ……」的なうんざり感が伝わります。
しかし、その一方で、
「……志水殿(義高)事あるの後、御悲歎の故に日を追ひて御憔悴。