清原和博、隠された真実「薬物」「桑田真澄」「元彼女の練炭自殺」

大いに盛り上がった夏の甲子園。今年は記念すべき第100大会ということで、松井秀喜、桑田真澄ら“レジェンド球児”たちが聖地に登場した。本来であれば、そこに名を連ねていたであろう元甲子園のスター・清原和博。2016年に薬物違反で逮捕され、有罪判決を受けた彼は、7月に自叙伝『告白』(文藝春秋)を出版した。この本は当初、清原が自らの半生を赤裸々に振り返るという触れ込みだったが、「実際読んでみると、やや消化不良でしたね。野球のことは詳細に語っている一方、“闇”の部分についてはあまり口にしていません。薬物依存の後遺症に苦しむ姿は伝わってきましたが、“暴露本”だと思って読むと、肩透かしを食うでしょうね」(スポーツ紙デスク)
ふたを開けてみれば、語られなかった“隠された真実”も多かったのだ。自叙伝では一切言及されなかった最大のトピックといえば、「反社会的勢力」との関係だ。清原と反社会組織関係者との接点が初めて報じられたのは1999年。巨人への移籍が決まった96年の年末に、山口組の組員と“賭けゴルフ”をしている写真が週刊誌にスクープされた。「このときのゴルフの写真が別の反社会組織関係者の手に渡り、清原は“マスコミにバラされたくなければ金を払え”と恐喝されています。これは後に裁判にもなり、清原も出廷していました。しかし事件が明るみに出る前には、別の反社会組織関係筋に対応を相談していたともっぱらです。この一件から、反社会組織との距離が縮まっていったと見て間違いないでしょうね」(全国紙記者)
実際、清原がオリックスに移籍した06年頃から、大阪・ミナミの繁華街で、反社会組織幹部らと飲み歩く姿がたびたび目撃されるようになったといわれる。さらには、後輩選手の野球賭博疑惑報道を心配した清原が、もみ消しを計り、山口組関係者に相談していたことも『週刊現代』(講談社)で報じられている。これは、自身が逮捕される4か月前の出来事だった。
このように、現役時代から逮捕されるまで、清原の周囲には多くの反社会組織関係者がうごめいていたとされる。そして、闇社会とズブズブの関係に陥るにつれ、まるで反社会組織のような行動を、彼は見せるようになっていったという。「携帯には一時期、組のロゴが入ったストラップをつけていたと囁かれていましたし、女の子のいる店で飲んでいるときに、組の大幹部の名前をチラつかせることもあったと噂されています。自分のバックには反社会組織がついていると吹聴したかったんでしょうが、それで離れていった友人も多いと聞きます」(芸能事情通)
こうした“黒い交際”が、清原の薬物へのハードルを下げてしまったことは、想像に難くない。そして、清原には、もう一つ、薬物にのめり込んだ理由があった。「清原がその快楽のトリコになっていたことは、薬物仲間だったという人間が証言しています。ASKAしかり、高知東生しかり、この味を知ってしまうと抜け出すのは難しい。噂話ですが、清原は先輩プロ野球OBとの疑惑まで報じられました」(前同)
■カリスマモデルと結婚まで考えていたが
当然ながら、告白本の中にそれについて、まったく触れられてはいないが、そもそも離婚した前妻を含め、女性に関する記述がほとんどない。実は清原には、大きな影響を与えたといわれる女性がいる。六本木の高級クラブのママだったAさんだ。「Aさんは、もともとファッション誌で活躍したカリスマモデル。西武ライオンズ在籍時の清原とつきあっていて、結婚まで考える仲だったそうです」(芸能事関係者)
その後、清原と破局したAさんはクラブに転身。ただ、別れた後も2人の交流は続いた。「清原にとって、彼女は何でも話せる貴重な人物。巨人移籍後、何かと精神的に追い詰められた清原の心の支えにもなっていたといいます。そんな彼女の存在が“夫婦ゲンカ”の一因になったのでは……とも囁かれました」(六本木のクラブ関係者)
だが12年、Aさんは東京・羽田空港の駐車場に停めてあった車の中で、遺体となって発見される。練炭を使った自殺だった。「芸能界、スポーツ界にも顔が広かったAさんは、闇社会とのつながりも指摘されていて、正直、酷い噂も流されました。この自殺にも“他殺説”があったほどです。もちろん、清原とAさんの死はまったく関係がありません。相当なショックを受けたはず」(前同) 大切な元恋人の死が、清原の孤独感に拍車をかけてしまった面も否めない。
そんな語られなかった事実がある一方、今回の『告白』で、清原が何度も口にした名前がある。「桑田真澄」だ。彼の名前が挙がるごとに、ときには称賛、ときには拒絶と、様々な思いが形を変えて現れていた。「好きも嫌いも結局、はっきりしない。それだけ、桑田に複雑すぎる思いを抱えているということなんでしょうね」(球団関係者)
その原因は、もちろん85年のドラフト会議だろう。愛する巨人が、自分ではなく桑田を1位指名した――。本の中で清原は、「桑田と巨人の間に密約」が存在していたと、驚きの告白をしている。「これは清原の思い込みでしょう。確かに当初、巨人は1位清原で固まっていた。しかし秋の国体で投げた桑田の球を見て、スカウトの評価が逆転。競合必至の清原を避け、単独1位が狙える桑田の強行指名に転じたんです」(当時を知るベテラン記者) 密約という“誤解”は、清原の複雑な感情が生んだものなのかもしれない。
さて、自叙伝を記した現在の清原は、いったい、どんな様子なのだろうか。「2週間に一度、クスリ治療で通院しているものの、ろれつが回っていないときもあり、周囲は心配しているようです。何より、仕事がないので金銭的にはかなり厳しいはず。やはり親友の佐々木主浩氏のような支援者なくしては、復帰は難しいでしょうね」(スポーツ紙記者)
裁判には情状証人として出廷した佐々木氏。4月に出演したラジオ番組では、清原の近況としてリハビリを頑張っていると明かし、「みんなで助け合って、彼を野球に戻したい」と支援を約束していた。かつてのスーパースターが闇を乗り越え、復帰する日を心待ちにしたい。
■清原和博「人生年表」
●1967年【誕生】8月18日、大阪府岸和田市で電器店を営む両親のもとに生まれる。小学3年生のときに、岸和田リトルに入団。野球を始める。シニア時代には全国大会にも出場。
●1983年【PL学園入学】1年生4番打者として、夏の甲子園で優勝。桑田真澄とともに「KKコンビ」として人気を博す。この後、卒業まで春、夏合計5回の甲子園大会に出場。優勝2回、準優勝2回。
●1985年【涙のドラフト会議】清原は6球団から1位指名。抽選のすえ、交渉権は西武ライオンズに。1位指名を示唆していた巨人は、早稲田大進学を表明していた桑田を1位指名。清原は会見で涙を流す。
●1986年【西武ライオンズに入団】開幕2戦目で公式戦デビュー。シーズン終盤には、プロ入り1年目ながら4番打者に。打率.304、打点78、本塁打31本の堂々たる成績で、この年のパ・リーグ新人王を獲得。
●1987年【“因縁”巨人との日本シリーズ】王貞治監督率いる巨人と対戦。日本一のかかった第6戦。西武リードで迎えた9回表、一塁を守る清原は感極まって号泣。試合後、ドラフトのことを思い出したと語った。
●1996年【巨人に移籍】この年、FA権を行使。長嶋茂雄監督のラブコールのもと、巨人に移籍する。5年契約で背番号は「5」。翌年は開幕から4番一塁で出場。巨人「第64代」4番打者となる。
●2005年【オリックスに移籍】巨人から戦力外通告を受け、オリックスに移籍。「大阪に帰ってこい」と、かねてからオリックス入りを熱心に誘っていた故・仰木彬氏の思いに応える形となった。
●2008年【現役引退】シーズン最終戦のソフトバンク戦で引退。試合前には王貞治監督から花束を受け取る。イチローや桑田らが見守る中、最後の打席は空振り三振。セレモニーでは長渕剛が熱唱。
●2016年【薬物で逮捕】東京都内の自宅マンションで、薬物0.1グラムを所持していたとして警視庁に現行犯逮捕。懲役2年6月・執行猶予4年の有罪判決を受ける。