亡くして初めて気づくその人の存在価値 西郷隆盛の死後の動静 (4/7ページ)

心に残る家族葬



■西郷にちなんだ手毬唄が埼玉県入間郡毛呂山町から全国に伝わっている

また、成立時期は不明だが、恐らく西郷の死後以降だと推察される、西郷にちなんだ手毬唄(てまりうた)/鞠(まり)つき歌がある。


   「一かけ 二かけて 三かけて 四かけて 五かけて
   橋をかけ 橋の欄干 腰おろし 遥か向こうをながむれば
   十七、八のねえさんが 花と線香手に持って
   ねえさんねえさんどこ行くの
   わたしは九州鹿児島の西郷隆盛娘です
   明治10年翌年に 切腹なされた父上の お墓参りをいたします
   御墓前で手を合わせ ナンマミダーブツ 拝みます
   西郷隆盛魂が フーワリフワリと浮いてます」


この歌は埼玉県南西部に位置し、東京都心から50キロ圏内に位置する入間郡毛呂山町(もろやままち)の川角(かわかど)地区に伝わるものだ。もちろんこの歌は毛呂山町限定のものではない。多少の脱落や言葉の違いはあっても、「西郷の娘」が呼び止められて、父親の墓参りに行く途中であることを話すという内容で、日本全国に伝わっているものだ。

■手毬とは?手毬唄とは?

手毬唄こと鞠つき歌の「まり」とは、「毬」「鞠」とも書く。今の我々が知るゴム製のまりが使われ始めたのは、1877(明治10)年頃とされている。それまでは、ワラビなどの植物の産毛や綿を芯にして、その周りに糸を巻きつけた「かがりまり」が用いられていた。それと同時に、武家の娘などの富裕層の間では、「かがりまり」の周囲を五色の絹糸で飾った「御殿(ごてん)まり」も好まれていた。ゴムまりとは異なり、「かがりまり」はさほど弾まない。そのため子どもたちは、地面に打ちつけるのではなく、膝をついて、床との短い距離をトントンとついて遊んでいた。そのため、遊びの際には長い物語歌が適していたという。だが、ゴムまりの普及につれて、単純に打つばかりではなく、歌に合わせた手足の複雑なジェスチャーが伴われるようになっていった。
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