亡くして初めて気づくその人の存在価値 西郷隆盛の死後の動静 (5/7ページ)

心に残る家族葬

それにつれて、『いちもんめのいすけさん』のように、「いちもんめー」「にもんめー」と歌い、「じゅうもんめー」で完結する、短い有節形式で進行するものと、『あんたがたどこさ』のように、話が進んでいくバラード形式のものが歌われるようになっていった。

また、手毬そのものは、最初から女の子の遊びのために発明されたものではなかった。当初は専門の、旅回りの人々の技芸だったものが、いつしか子どもたちに模倣されていくようになったものである。歌も当然、まりをつく技芸と共に引き継がれたものであるため、子ども専門に大人がつくったものでも、子どもの誰かがつくりだしたものでもなかった。そのため、省かれたり、違う言葉に置き換えられたりして、意味が通じないまま、その地域で歌い継がれているものも多いのだ。手毬唄そのものは今現在、『あんたがたどこさ』だけがかすかに命脈を保っている格好だが、1970年代以降、子どもの遊びの多様化が進み、多くのものが廃れていってしまっている。

■西郷と手毬唄と埼玉県の関係性

西郷の手毬唄が伝わる毛呂山町だが、秩父山地東麓に位置し、上野国国府と武蔵国国府を結んでいた交通路があったことから、古くは、鎌倉幕府に仕える多くの武士を輩出した場所だった。近世になってからは、幕府領・藩領・旗本領・寺社領などが複雑に入り組んだ格好で、米や麦を生産する農家が点在していた。明治維新後の1872(明治5)年に群馬県富岡に製紙工場が落成したことから、毛呂山町ではそれまでの農業に加え、養蚕業がさかんになっていった。しかも蚕を育てるばかりではなく、家内制手工業的な小さな「機屋(はたや)」「織屋(おりや)」「工場(こうば)」があちこちに建ち、そこに近在の村々出身の女工たちが、住み込みで働いていた。そうしたことから町内には、小間物を売る行商人のみならず、蚕の餌である桑の葉を売買する人々、繭や使い物にならないクズの糸などを買い付けに来る商人など、遠方からの人の出入りが大勢あったと言われている。西郷の手毬唄やゴムまりなども、そうした人々と一緒に、毛呂山町にもたらされたものであろうと考えられる。

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