長嶋茂雄、王貞治、野村克也…プロ野球レジェンドたちの「師弟の絆」感動秘話

日刊大衆

長嶋茂雄、王貞治、野村克也…プロ野球レジェンドたちの「師弟の絆」感動秘話

 名選手の教え子は、いかに“スター”となっていったのか――。そこには知られざる「感動物語」があった!

 日本プロ野球界を彩った数々のスター選手たち。彼らの多くは、現役を退くと指導者となり、後進の育成に尽力する。そして指導を受けた弟子の中には、師匠の期待に応え、球界の新たなスターとなる者も生まれている。

 日本球界最大のスーパースター、ミスタージャイアンツこと長嶋茂雄(82)の弟子といえば、誰もが真っ先に思い浮かべるのは、やはり松井秀喜(44)だろう。1992年のドラフト1位として、鳴り物入りで巨人入団を果たした松井。だが実は、なんと巨人が松井の指名を回避する可能性もあったのだという。「この年、巨人の一番の補強ポイントは、即戦力の投手。スカウト陣はナンバーワン評価の伊藤智仁(元ヤクルト)の指名で、ほぼ決まっていました」(スポーツ紙ベテラン記者)

 しかし同年オフ、ミスターの監督就任が決まると状況は一変する。「スカウト会議に出席したミスターは、有力候補のビデオをチェックする前にもかかわらず、“1位は星稜の松井”とキッパリ断言したそうです。浪人中に松井の打撃をチェックしていて、すでにゾッコンだったみたいですね」(前同)

 しかし、怪物・松井では何球団が競合するか分からない。スカウト陣は、このリスクを懸念していた。「これにミスターは、“競合? 望むところだ、俺がくじを引く!”と押し切ったといいます。実際、4球団競合できっちり当たりくじを引くんですから、“さすがミスター”としか言いようがありませんね」(同)

 そして松井は巨人に入団し、かの有名な「4番1000日計画」がスタートすることになる。東京ドームの一室で、遠征先ではホテルの部屋で、松井は毎日バットを振り、ミスターはスイングの音を聞きながら松井にアドバイスした。「マンツーマンの練習は1000日どころか、長嶋監督勇退まで続きました。長嶋監督の最終戦では、松井は涙を流しながらバットを振ったそうです」(同)

 松井は引退会見で、現役時代の一番の思い出を聞かれ、「長嶋監督と2人で素振りをしていた時間」と回答。まさに、ミスターが育て上げたスーパースターだった。

 実は松井以前にも、ミスター自らが手塩にかけて育て上げた選手たちがいる。「ミスターといえば、79年の第一次政権時に行われた“地獄の伊東キャンプ”を忘れてはいけません。キャンプとは言っても、参加したのは江川、篠塚、松本ら若手18人と首脳陣3人だけ。少数精鋭で、すさまじい猛練習が繰り広げられました」(当時を知る元巨人番記者)

 ミスターは自らノックバットを握り、若手選手をとことん、しごき抜いた。約1か月にわたる地獄の中、特に成長したのが中畑清(64)だったという。「中畑は、ミスターからノックの嵐を受けてバテバテなのに、取ったボールを監督目がけて思い切り投げ返してくる。ミスターは間一髪避けて怒るどころか、うれしそうに“まだ元気あるじゃないか!”と、ノックを続けるんです」(前同)

 長嶋監督の下でコーチも務めた野球評論家の黒江透修氏は、ミスターと中畑の関係性をこう証言する。「長嶋さんは同じ三塁手として中畑を気にかけていたし、とにかく元気な選手が好き。中畑は長嶋さんの一番弟子と言えるだろうね」

 ただ、残念ながら翌80年も巨人は優勝を逃し、長嶋監督は解任されてしまう。「その後、巨人は81年、83年と優勝しています。これは伊東キャンプで鍛えられた選手たちが主力となり、つかんだ成果。間違いなく、ミスターの功績です」(前出の元巨人番記者)

 実際、選手たちも“あの伊東キャンプが自信になった”と口々に語っている。「キャンプ最終日、選手たちが走り込みに出かける前に“最後くらい、監督も走りましょうよ”と声をかけた。これを受けて、ミスターは一緒に走り切ったそうです。ミスターの本気を選手たちが受け止めたからこそ、この一体感が生まれたんでしょうね」(同) まさに、師弟関係を証明する逸話だろう。

■小久保裕紀は王監督の“4番道”に触れて…

 ミスターとともに巨人の4番を背負ってきたもう一人の男、王貞治(78)。彼はダイエー監督時代、4番打者として小久保裕紀(46)を育て上げた。「95年、監督となった王さんは、プロの壁にぶつかっていた小久保に、“背中がバリバリいうくらい強く振れ”と、スラッガーの英才教育を施した。これに小久保は猛練習で応え、才能が開花。この年、初の本塁打王を獲得しています」(スポーツ紙デスク)

 王監督が小久保に伝授したのは打撃理論だけではなかった。現役晩年、ケガに悩まされ、スランプが続いていた小久保が監督室を訪ねたときのことだ。「小久保は“4番を外してほしい”と頼んだそうです。しかし、王監督は“4番は簡単に変えるものじゃないんだ”と、これを一蹴。小久保を4番で使い続けた。その後、小久保はスランプ脱出に成功しますが、王監督の“4番道”に触れ、学ぶところが大きかったようです」(前同)

 ちなみに王には、84年からの巨人監督時代にも“将来の4番”を夢見ていた逸材がいた。「“50番トリオ”の一人、吉村禎章(55)です。才能があるうえに、とにかく練習の虫。王さんは“何事もなければ、吉村はONにも匹敵する、ものすごいバッターに成長していたはずだ”と大絶賛していました」(元巨人番記者)

 吉村は、81年のドラフトで巨人3位指名された。「大学進学かプロ入りかで迷っていた吉村に、当時まだ助監督だった王さんが直接電話。“一緒に野球をやろう”と説得し、入団を決意させています」(前同)

 そして、王監督就任1年目となる84年にレギュラーをつかみ、三拍子そろった好打者としてブレイク。原辰徳、クロマティとクリーンナップを背負う、巨人の主軸へと成長していった。しかし88年、当時25歳の吉村を悲劇が襲う。「札幌円山球場での試合中、外野フライを捕球する際、吉村は他の外野手と激しく激突。左ヒザ靱帯を3本切るという、選手生命も危ぶまれる大ケガを負いました。懸命のリハビリで89年終盤に復帰したものの、以前のような活躍は引退まで蘇りませんでした」(同)

 くしくも吉村がケガをした88年、“4番道”を伝授できないまま、王監督は辞任している。

■古田敦也は「野村ID野球」の申し子

 現役時代、ONとしのぎを削ったレジェンド、野村克也(83)も、多くの愛弟子を残した名指導者だ。特にヤクルト監督時代は、90年から在籍9年で日本一を3度達成。黄金時代を築き上げた。その立役者となったのは、捕手の古田敦也(53)。野村監督就任と同時に入団した、まさに「野村ID野球」の申し子だった。「野村監督は、まずスカウトに“優勝するには、いいキャッチャーが欲しい”と注文を出した。そこでリストアップされたのが古田でした」(スポーツ紙記者)

 ただ、当時の古田は実力を評価されながらも、メガネをかけているという理由で、どの球団も獲得に二の足を踏んでいた。「野村監督は“メガネなんて、どうにでもなる、絶対取れ”と指名を決定。ドラフト2位で単独指名でした」(前同)

 古田がヤクルトに入団すると、野村は“ID野球”を徹底的に叩き込んだ。「野村さんは“ブルペンなんか行かんでもいい、ベンチに座って勉強してろ!”と、試合中に古田を自分の前に座らせ、配球理論をずっと聞かせ続けました。古田がレギュラーとなった後も、味方が攻撃している間は、ひたすらリードの反省会。ときには立たされて説教されていましたね」(スポーツ紙デスク)

 野村監督の高い要求を前に、いつも怒られてばかりだった古田が“一番怒られた”と語る出来事がある。1年目途中から正捕手の座をつかみ、迎えた2年目のオープン戦でのことだ。「ベンチ際にファールフライが上がったとき、古田は“ぶつかったらマズイ”と最後まで追わなかったんだそうです。すると、これに野村監督が激怒。“去年までなら飛び込んで取っていた。その慢心がダメなんだ!”と2時間、正座させられたといいます」(スポーツライター)

 しかし、このゲキが効いたのか、この年に古田は首位打者を獲得。名実ともに一流選手となり、やがて“平成最高の捕手”にまで上りつめる。

 そんな、まっさらな状態から染め上げられた古田とは対照的に、これまでの野球観を野村監督にガツンと変えられた選手もいる。その筆頭が、“ブンブン丸”池山隆寛(52)だ。野村監督就任前、池山は2年連続30本塁打をマークするなど、すでにヤクルトの若きスラッガーとして頭角を現していた。「前任者・関根潤三監督の“三振を怖がらず振れ!”という指導もあって、池山の打撃は三振かホームランかのフルスイング一辺倒。本人も当時、“三振の延長がホームラン”とまで語っていたほど。そんな池山を野村監督は“どんなときも振り回すのはチームに迷惑”と諭し、意識改革させていったそうです」(前同)

 天性の素質だけでプレーしていた池山も、野村IDの薫陶を受け、次第に頭を使った野球を覚えていく。「池山は、92年のシーズン開幕前、“バッターボックスに立ったとき、ミーティングのことが、ふと頭の中に浮かぶ”と語っていました。このあたりから、野村監督の教えが自分の力となっていることが実感でき始めたんでしょうね」(同)

 この年、野村ヤクルトは初めてリーグ優勝。池山は勝つためのバッティングを身につけ、“野村ID野球の申し子”となっていた。「2004年、楽天監督に就任した野村さんは、池山を一軍打撃コーチに据えたんです。これは、それだけ野村野球の理解者として信頼している証。池山も、当時39歳だった山崎武司を二冠王に導くなど、右腕として手腕を発揮しました」(スポーツ紙デスク)

 偉大な遺伝子が、いつまでも継承されることを願う。

■まだいる! 球界レジェンド3人の「愛弟子」たち

●長嶋茂雄

高田繁(巨人/1975~80年に長嶋監督下でプレー)当初は外野の名手ながら、76年、張本勲の移籍をきっかけに長嶋監督によってサードへコンバート。多摩川河川敷で長嶋がマンツーマンの猛ノックでしごき、ゴールデングラブ賞を獲得するまでに。

原辰徳(巨人/1999~2001年に長嶋監督下でコーチ)第二次長嶋政権でコーチ経験を積み、ミスターが「オレの後継監督」として英才教育。試合後、2人で展開を振り返り、ミスターは戦国武将や合戦のたとえを引用しながら、原に戦術を伝授したという。

●王貞治

松中信彦(福岡/1997~2008年に王監督下でプレー)「速球を一発でしとめる」という王貞治のバッティング美学を忠実に体現し、2004年、三冠王に輝く。王は監督として、松中の打球をさばく技術と野球に対する姿勢を高く評価していた。

柳田悠岐(福岡/2011年から王会長の下でプレー)2010年ドラフト、現西武の秋山翔吾と指名候補が割れたが、柳田のパワーにベタぼれした王会長の一声で獲得。柳田はそれに恩義を感じ、「単年契約でも大丈夫、移籍しません」と言い切ったという。

●野村克也

山崎武司(楽天/2006~09年に野村監督下でプレー)「今まで出会った監督の中でナンバーワン」と語る、遅咲きの野村チルドレン。野村監督と出会い、「考える野球」を身につけたことで引退間際の選手が復活。39歳で本塁打王、打点王を獲得した。

宮本慎也(ヤクルト/1995~98年に野村監督下でプレー)守備職人ながら打撃が苦手だった宮本。野村監督から「一流の脇役になれ」と方向性を示されて開眼。右方向への打撃をマスターし、2000本安打を達成。指導者となった今も監督からの影響を公言。

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