血と死と殺し合い…ケガレにまみれて生きる武士たちが信心深い理由とは? (2/3ページ)
「八一 神は穢を御嫌ひなされ候由に候へども、一分の見立てこれありて、日拜怠り申さず候。
その仔細は軍中にて血を切りかぶり、死人乗り越えゝゝゝゝ働き候時分、運命を祈り申す爲にこそ、兼々は信心仕る事に候。
その時、穢あるとて後向き候神ならば詮無き事としかと存じ極め、穢の構ひなく拜み仕り候由」【大意】神仏はケガレをお嫌いなさるそうですが、思うところあって、毎日の参拝は欠かした事がありません。
敵を斬り殺した血しぶきを浴び、誰ともつかぬ累々たる死屍(しかばね)を蹴散らし踏み越えしている時、ここ一番で御加護を賜れるよう、かねがね信心しているのです。
しかしその時、全身に血を浴びていたり、敵を殺していたり、その首を提げていたりなど、武士はケガレにまみれているから、と神仏がそっぽを向いてしまうかも知れません。
しかしまぁ、その時は「そんなもんだ」と覚悟を決めて、とにかくケガレていようといまいと、悔いのないよう参拝を続けるのです。
【ざっくり言うと】
武士ゆえに戦い、生き残れるよう、神仏の御加護を祈る。でも、神仏は戦いによるケガレを嫌う。
だからもしかして、ここ一番で御加護を下さらないかも知れない。それでも「そんなもんだ」と覚悟して、神仏に祈り続ける。
こう説明したところ、ある方が訊かれました。「守ってくれるかどうか判らない神様なんて、最初から拝まなければいいのでは?」と。
しかし、そういう事ではないのです。
武士の神仏の関係
武士たちの昇殿参拝。鎌倉坂ノ下・御霊神社にて。