徳川家康は替え玉?家康は戦死し、実は影武者だった説を検証 (2/2ページ)
このことを考えると、南宗寺には大阪で討たれた家康の亡骸が埋まっているのでしょうか。
家康の影武者説は1902(明治35)年に村岡素一郎が『史疑徳川家康事績』という作品を上梓してから、人々の間で流行り、隆慶一郎が『影武者徳川家康』を原作としたコミックで人々に広く知られるようになりました。
そもそも、戦国の世において影武者説は徳川家康に限らず、珍しいものではなかったようです。
一国を統治する武将の生死は自国のみならず、隣国や同盟国の命運を変えることもあります。
そのため、本人への直接的な危害や危険をそらすために影武者が用意されていました。
影武者に関する話で最も有名なのが、故事「元の木阿弥」の元となった筒井順慶の父、筒井順昭のエピソード。
順昭が亡くなったとき、嫡男である順慶が非常に幼く、家中が混乱することが予想されました。そこで、3年間その日を公開しないということになり、順昭と容姿も声もそっくりな木阿弥なる盲目の僧侶が影武者として立てられることになりました。
影武者となった木阿弥は見事に順昭を演じ、嫡男の筒井順慶に無事に橋渡しをしました。筒井家の家臣団が順慶の下で体制を整えた後、再び元の生活に戻っていきました。この故事から、「元の木阿弥」という言葉が生まれました。
遺言により3年間死を公表しないというのは当時よくあったことらしく、有名どころでは武田信玄や三好長慶などが、その死後3年間、死亡を公表されませんでした。
武田信玄の場合は他にも影武者にまつわる話があります。
5回あった川中島の戦いのうち、最も激戦になった第4回目の戦において、信玄の次弟である典厩信繁が信玄の身代わりとなって命を落としたともいわれています。
また信玄には後の三方ヶ原の合戦で徳川家康を破り、三河まであと一歩のところに進軍するも病によって倒れてしまいます。
これによって武田軍は甲斐へ撤退しますが、このときも弟の信廉が信玄に扮して撤退を指揮したといわれています。
最悪の場合、自分の家臣までが裏切るかもしれない戦国の世、自分の死が他人に知られた場合、その隙に乗じて攻めこまれないとも限りません。
「替え玉」は、戦国時代を生き抜くための武将たちの秘策だったのかもしれません。
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