田中角栄「名勝負物語」 第二番 福田赳夫(9) (2/3ページ)

週刊実話

敗軍の将、兵を語らずだな」

 田中がバックの大平はこの「逆転勝利」で自信を持ったか、政権発足の翌昭和54年(1979年)9月、福田派ら反主流派の反対を押し切って衆院解散に打って出た。

 しかし、選挙期間中に大平自身が「一般消費税導入」を口にしたことから国民の反発を招き、自民党はギリギリ過半数を確保するのが精いっぱいの結果となったのだった。

★“ねばり腰”を見せる福田

 さあ、収まらないのが福田派など反主流派だった。

 「言ったこっちゃない。われわれの反対を押し切って解散するから、こんなことになる。責任はすべて大平にある。退陣すべき」

 こうした声の背景には、なお影響力を落とさぬ「闇将軍」田中への反発があったことは言うまでもなかった。しかし、田中の全力投球、全面支援を受けて総裁となった大平は、ハイそうですかと降りるわけにはいかない。少なくとも過半数は維持した以上、責任はない、とこれを拒否した。一方の反主流派の“辞めろコール”も、高まるばかりであった。自民党としては、総選挙後の特別国会で、新総裁の首相としての首班指名を受けなければならない。

 しかし、反主流派は大平の首班指名には納得しない。議員支持数で優る大平・田中陣営は「それなら両院議員総会で首相候補を決めようじゃないか」と主張、対して、反主流派は“数”の決着では勝ち目なしとこれを拒否し、「自民党をよくする会」を結成、まったく相容れる余地はなかったのである。「よくする会」は、大平・田中陣営が両院議員総会を強行することを警戒、会場となる党本部8階のホールを椅子でバリケードをつくって封鎖してしまうなどもあったのだった。

 さらに、両者の関係を硬化させたのは、「国会の暴れん坊」ハマコーこと浜田幸一がこのホールに乗り込み、「なんだ、これはッ」とイスをひっくり返してバリケード排除に出たこともあった。もはや両者は全面対決、党分裂かの一大危機に陥った。以後、じつに40日間モメ続け、これが世に言う自民党史に残る「40日間抗争」ということになる。当時の自民党担当記者の証言がある。

 「この間、さまざまな妥協点を見い出そうとする動きがあった。

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