将軍・殿様の「正室と側室」奇妙な真実(5)3代家光は春日局の子だったのか? (2/3ページ)

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御家人はお目見え以下ですから、その女房も将軍家の子供の顔を見てはいけないということで、覆面というか大きなマスクをしておっぱいをあげていたのだそうです。直接、抱くことも禁じられていたので、格上の女性がおっぱいのところへもっていって、吸いなさいとやっていたわけです。そんな格式の中でおっぱいをやるわけですから、女房たちも緊張しておっぱいが出なくなったりするのですね。だから5人も雇わなければならなかった。大奥に入り浸りで側室を40人も抱えて正室・側室に53人もの子供を作ったのは11代家斉(いえなり)ですが、その子供が次々に死んで半分以上が育たなかった。どうしてそんなに死んでしまうのか。その原因はおっぱいのやり方も含めてのびのびと育てていないからに違いないと。それで途中から覆面をしないでお乳を飲ませられるよう旗本の女房たちに乳持ちをやらせるように改めたのです。それでも幼くして死ぬ子はなくならなかった。本当の原因はおっぱいをあげる女房たちの白粉(おしろい)に鉛が入っていたからだとも言われています。当時は胸元まで白粉を塗って化粧をしていましたから、その鉛をおっぱいと一緒に飲み込んだことが原因だということは否定できないと思います」

 徳川将軍家の墓は芝増上寺と上野寛永寺だが、ここに半分ずつ交互に埋葬されていると考えていいという。

「ただ、家康は日光東照宮に、2代秀忠は菩提寺の増上寺ですが、家光は父母の秀忠・お江と一緒のところにいたくなかったのか、天海僧正(てんかいそうじょう)の力もあって、上野寛永寺という第2菩提寺を造ったわけです。その家光も結局は日光に墓を作って、敬愛する家康のそばに行くわけです。4代家綱も5代綱吉も寛永寺に墓があることから、増上寺としては『どうなってるんだ』となります。そこで、6代家宣は増上寺に行き、7代家継はわずか7歳で亡くなったので、父と同じ増上寺に墓があります。そして8代吉宗はなんだかんだと言われても日陰の身だった自分を見いだしてくれた綱吉を尊敬しており、墓は寛永寺の綱吉の隣というか、その敷地の一部にあるのです。それは吉宗の節約精神の表れでもあったようです。そしてこれ以降は、将軍の墓は増上寺と寛永寺で交互に埋葬されることになりました。寛永寺にも増上寺にも墓がないのは慶喜だけです。

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