藤田田と三人の男 太宰治、山崎晃嗣、カルロス・ゴーン、それぞれの躓き (2/7ページ)

心に残る家族葬



山崎は藤田よりも3歳年長だったものの、大学内で互いに顔見知りだった。藤田から見た山崎は「彼ほど頭のいい男は見たことがありません。空で複雑なかけ算をして、パッと答えを出すんですから」。一方、山崎から見た藤田は、「お前ほど心臓の強いヤツに会ったのは初めて」だったという。

山崎は東大始まって以来の秀才と言われた人物だったが、その知性を活かして学問に専念するのではなく、学業の傍ら、「光クラブ」という貸金業を始め、羽振りのいい生活をしていた。とはいえ、1949(昭和24)年に物価統制令違反で逮捕されてからは、クラブの資金繰りが苦しくなってしまう。それを受けて山崎は「契約は人間と人間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ。そのために死ぬ」などと記した遺書を残して服毒自殺を図った。

山崎は死の直前、藤田に「クラブが行き詰まった」と漏らしていた。それに対して藤田は、「法的に解決することを望むなら、君が消えることだ」と冷徹かつ極めて「現実的」なことを言い放ったという。後に藤田は当時を振り返り、「山崎はカネの虚しさに絶望して死んだが、私はその使い道を模索して生き残った」と述べている。

■終戦の日、藤田田が叫びはしゃいだこととは?

そんな藤田は日本の敗戦の日、1945(昭和20)年8月15日、旧制松山高校の学生寮にいた。同級生は敗戦のショックで号泣していたが、藤田だけがひとり、「日本は自由になる!」と思いながら、大声で叫んで、はしゃいでいた。しかし藤田にとっての当時の日本は、必ずしも「自由」に思えるものではなかった。

「40歳以上の日本人はダメで、使い物にならないと思っていた…(略)…あんな戦争を起こして、日本を悲惨な目に遭わせて、その責任もとらないで、のうのうと役人をしていたり、大企業を経営している」と、世の中に対する反発心を抱きつつ、世間に絶望するのではなく、「自分の商売を続ける!」とあくまでも「マイナス」をエネルギーに変え、自分をポジティブな方向に持っていく考え方をしていた。詳細は本人たちにしかわからないとはいえ、結果的に社会的または個人的な「負」に呑まれる形で「自殺」を選んだ2人とは大きな違いがあったのだ。
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