江戸時代、餓死者放置は当たり前!?人肉をも食べた恐ろしい飢饉の真実【その1】 (1/2ページ)

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江戸時代、餓死者放置は当たり前!?人肉をも食べた恐ろしい飢饉の真実【その1】

みんな大好き江戸時代。確かに良いところを挙げればキリがないほどの魅力的な時代だったことは確かですが、ひとたび裏を返せば黒歴史もたくさん・・・。今回はそんな江戸時代の闇、「飢饉」の歴史をクローズアップします。

享保の飢饉(1732年)

暴れん坊将軍こと8代将軍徳川吉宗の治世に起きた享保の飢饉。西日本で長雨と害虫大量発生が相次ぎ、米の収穫に大打撃を与えました。その中でも特に被害が大きかったのは伊予松山藩。なんと全国の餓死者1万2千人のうち30%が伊予松山藩の農民でした。

夏には伊予松山の城下に助けを求める農民が溢れましたが、藩としても策がなかったために追い返すしかなく、結果的に餓死者があちこちに転がる事態に・・・。

しかしそんな状況でも藩は策を打たないばかりか、藩士に対してだけは家族の人数に応じて暮らしに困らないだけの米を配給しており、武士とその他の庶民の格差が歴然としていたとか。恐ろしや、江戸時代!

さて、西日本の深刻な不作の影響は年末には江戸にまで波及し、米の価格が数倍に高騰しました。この事態に窮した江戸庶民は「この米価高騰は幕府御用達の米商人・高間伝兵衛が米を大量に買占め隠匿しているかららしい」と噂するように。

そしてこの翌年1月26日に、激怒した江戸庶民1700人(!)によって、江戸時代で最初の打ちこわしが起こりました。それにしても1700人がたった1軒の米蔵に襲いかかるってハンパないですね・・・。

天明の飢饉(1782〜1788年)

今度は北に移動し、奥州が発端となった天明の飢饉。奥州の冷害に浅間山の噴火による火山灰の被害が重なり発生しました。江戸時代でも類を見ない大飢饉と言われ、当時の人々も長い間語り継いだそうです。

特に陸奥の弘前藩における被害は甚大で、藩の人口の約1/3である10数万人が餓死し、逃散した者も多くいたので結果的に約半分にまで人口が落ち込んだといいます。飢餓とは恐ろしいもので、追い詰められた人々はまだ息のある家畜や家族をも殺し、その肉を食べたという話が伝わっています。

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